2013年4月9日火曜日

「のがれの町」


ヨシュア記20:1-9

神様の命令に従ってカナンの地を占領してきたイスラエルは、12の部族にその地を分割しました。ユダ、マナセなど大きな部族には、さらに森林を切り開いて先住カナン部族を追い払って領地を拡大するように、と自立心を促しました。カレブのように大胆な信仰と勇気をもったリーダーのいたユダ部族はそれを達成していきました。 ベニヤミン、シメオン、ゼブルン、イッサカルといった7つの少数の部族にも、「たとえ力強いリーダーシップがなくても、人数は小さくても、「自分はだめだ、できない」とは言わずに、 任された場所を勝ち取っていきなさい!」という励ましを送りましたね。このようにして、小さな部族の代表も、「私達でもできるかもしれない。」そんな信仰が生まれて偵察にでていきました。そして、自分たちなりに7部族も平等に土地を分割し、それぞれに戦いをすすめて、カナンの地の征服という神様の使命を実現していきました。カナンの地はこうしてイスラエルの地となったのです。

20章は、すべての分割が終わった最後に主なる神様がヨシュアに最後に命じたことがかいてあります。 3節をよんでみると、「謝ってしらずに人を殺した殺人者が、そこににげこむことのできるようにしなさい。その町々は、あなたがたが地の復讐をするものから逃れる場所となる。」 これは、過失の殺人者が復讐者の手をのがれて逃げ込める町をつくりなさい、という命令です。あやまって事件をおこしてしまうのと、故意に計画的な殺人をするのでは大きな違いがあります。当時の法律では、被害者の家族は犯人に復讐が許されていたのです。「目には目を、歯には歯を」ということばで 有名なハンムラビ法典があります。紀元前19世紀の王ハンムラビが制定した史上第二のふるい法律と言われています。復讐の最大限をきめたルールです。やられたことは数倍にして仕返ししたくなるのが人間ですから、復讐するときには同じ程度までにとどめなさい、という同態復讐法とよばれるものです。同じような表現「目には目、歯には歯」というのが聖書にもでてくるのですが、これは仕返しというよりも、そのような罪を犯したときには、そのような償いをすることになる、という悪をイスラエルの民の中から取り除くための 罰則という色彩で語られています。

間違いとはいえ愛する家族を失った人は、その悲しみをどこかにぶつけないといられません。古代中近東の風習は多くが復讐を認めていたのですが、イスラエルに神様が命じたことは、悪意なく起こしてしまった事件だったら、逃れの町をつくってにげ込めるように、という命令でした。神様の配慮の深さが表れています。実はカナンに来る前のイスラエルでも、過失で人をあやめてしまった場合は、祭壇の角にふれて復讐をのがれることが許されたのです。 このように広い地域に分散した12部族は、聖所に逃げ込むことが簡単にはできなくなったので、川の東に3つの町、西に3つの町が逃れの町として設定されたのでしょう。6つの町ができたおかげで、カナンの地のどこで過失の事件がおきても、一日以内にはのがれの町に逃げ込める距離であったということです。

どうして町に逃れるようにしたのか? それは、その事件が会衆の前で裁判をうけるまで、復讐をうけることがないようにとの目的でした。被害者の家族の怒りは押さえることができません。しかし、双方の様々な言い分がしらべられて、資料があつめられて、ただしい判断がなされるべきです。とりあえず過失致死の容疑者が、身柄をかくして、裁判で正しくさばかれるまでは保護される、という目的でした。

ここにイスラエルの神様の御性質が表されています。一つには、神様は罪をみのがすことのない義なる方であること、ここで神様の見られるものは、行動の裏側にある心の本質だということです。表面にあらわれた出来事や言葉ではなく、神様がごらんになるのは“心”です。その事件をおこした“心”が神様の怒りをかうものだったら、逃れることはできなくて、“心”が神様の憐れみを受けるものならば、のがれの場所が備えられたのです。 これが二つ目の御性質、神様の罪人への憐れみです。不完全な人間である私達は、そうしたくなくても失敗をし、人をきずつけ、あやめてしまうおろかな存在です。しかしそれが、意図的でないものならば、神様の前に悔い改める時、主の憐れみを受けることができます。何度かお分かちしたことですが、イスカリオテのユダとペテロや他の弟子もみんなイエスキリストを裏切りました。ペテロや他の弟子達はのちにイエスキリストの使徒として大きく用いられましたがユダはそうではありませんでした。何が違いかというと、ユダは心をサタンに渡しています。報酬をきめてイエスキリストを売り、背後で計画をたててイエスキリストが逮捕されるようにしています。まさしく意図的な裏切りでした。他の弟子もイエスキリストを見捨てて逃げましたが、目の前に軍隊がきて逮捕されそうになったとき、本能的に逃げたのでしょう。ペテロも捕まりそうになったとき、つい否定してしまった様子が記録されています。過ちは、それが意図的な行為かどうか、神様は“心”をみられるのです。 

逃れの町は、過失をケースとしています。どのように努力しても完全には生きられない、知らず知らずの内に人をきずつけ、過ちをおかす人間です。そんな私達が悔い改めの内にいきられるようにとの、主の憐れみあふれる配慮でした。

逃れの町に逃げ込んだ人は二度と家族のもとへ戻ることはできないのでしょうか? いいえ、二つの場合がゆるされていました。
1.裁判が会衆の前でなされて、無罪判決がなされたら、家にもどることができます。さまざまな証拠や証言があつめられて、会衆が感情にながされずに判断したとき、復讐から解かれたのです。それでも怒りの収まらない被害者が復讐したら、それはあらたな犯罪となります。
2.その時の大祭司が死ぬまで。これは普通では考えられないルールです。イスラエルならではのきまりでした。大祭司の死は、のがれの町にいた容疑者達の罪をあたかも背負って死んでくれた、と考えるような規定です。

幕やの時には動物の血がそそがれた祭壇の角につかまれば、裁きをのがれられました。そして、カナンの地に定着するときには、逃れの町が作られました。そして、新約の時代になって、これら全部が予表であるかのように、救い主イエスキリストの十字架という、わたしたちの逃れの町があたえられたのです。それは私達が意図的に、神様にさからおうとしてしたのではない過失は、すべてこの十字架の下におかれ、罰をのがれることが赦されるのです。嘘をついたことも、盗んでしまったことも、ごまかしてしまったことも、人を傷つけてしまったことも、犯罪をおかしてしまったことも、イエスキリストを十字架につけてしまったことも。イエスキリスト様が、十字架にかける兵士のために、「かれらは自分のしていることを知らないのです」といって下さる方のあわれみによって、愚かな過失をつづける人間に、逃れの町を備えてくださったのが、十字架です。

それは、私達の罪のための逃れの町であり、また、私達に傷つけた者にも同じです。復讐心をすてて、主の裁きをまちましょう。


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