2013年4月9日火曜日

「人生を最高に生きるには」


ピリピ人への手紙1:1−11

4月となりました。あたりにケナリ、木蓮、桜のつぼみが開きはじめて、心がうきうきしてきます。韓国の春は、北海道のように花が一斉に咲くので、感動が大きいです。
今年の日本語礼拝部の目標は、「成熟をめざして」、です。そしてこの春学期はとくに「祈りの生活」において成熟をめざしたいと願います。 各部会でも、個人の生活においても、祈りの生活を充実させる3ヶ月をめざしてくださったらと思います。今日は特別に世界の親をなくしたり、食べ物にも困っている子供達のために捧げ物をする日です。神様が小さな者にしたのはわたしにした、とおっしゃった事を心にとめて、神様にささげる思いでささげましょう。また、洋服や使っていない電化なども集めて必要な方に21日にお分かちします。家からお持ちください。様々な政治的な不安定がありますが、一日を神様のみ声にしたがって生きるているならば、大丈夫です。主をよろこんで、今月もすごしましょう。


<ピリピ書1章>

パウロとピリピ
ピリピはヨーロッパ側のマケドニア地方の第一都市。 パウロがマケドニア地方の男が 「渡って来て私たちを助けてください。」というのを夢で見て、方向を変えて、成り立ての弟子テモテをつれてヨーロッパに渡り、二番目に立ち寄ったのがピリピでした。そこではいろんな出来事がありました。使徒行伝の16章をみると、まず、パウロ達は、安息日に祈り場のある河の辺りにでかけた、とあります。この町にはユダヤ人の会堂(シナゴーグ)はなかったという事です。ユダヤ人ディアスポラの数がそれほど多くはなかったのでしょう。それで、ユダヤ人または改宗者達は、川辺の祈り場で安息日の儀式を保っていました。

ルデアとの出会い
そこでパウロ達は、ルデアという神を敬う夫人に出会います。この神を敬う人というのは、民族的にはユダヤ人ではないけれども、信仰的に賛成してユダヤの神を礼拝する異邦人の事で、ルデアはここに来ては礼拝を守っていたのでしょう。ルデアの紹介はテアテラ市の紫布の商人とありますので、女手でビジネスをしていたのでしょう。おそらく夫が居なくなって一人でやりくりをしていたのかもしれません。女で商売をするのは大変なこと、神様の守りをもとめて祈り場に来ていたのだと思います。パウロが、神様が人となってこられ、完成してくださった救いの業と、復活の証しを聞いたとき、ルデアは目が開かれて、神の真実と救いの確かさを受け止めることができたのでしょう。その日、彼女も一緒に来ていた家族も洗礼をうけました。彼女は喜びにあふれて、パウロの一行を家に招きました。おそらく、ルデアの家は結構裕福な家だったのではないかとおもいます。
私がまだ神学生だったときに最初のミッショントリップにでかけました。神学生5人の旅だったので、どこにいっても一番安い宿に泊まりました。マレーシアのKLでは、以前兵隊が使用していたキャンプ施設で数日泊まることになっていました。ベッドは3段ベッドで、マットレスはすでに伸びきってハンモック状態で、腰がのびなくて大変でした。翌日教会にいって奉仕をすると、お医者さんである教会員が、どこに泊まっているのかと聞いてくれました。宿舎の説明をすると、「そんな所に泊まらなくていい。わたしの家にきなさい。」と誘ってくれて、午後には大きな車が迎えにきました。ついたところは、まさしく豪邸。ガレージも自動に開いて、フロアは大理石でした。メンバーの一人一人に個室が与えられました。そして水着を渡され、庭のプールでしばらくくつろぐように、と。緊張のつづいた一ヶ月の旅行だったので、この日は久々に楽しい豪華な時をすごさせてもらいました。あんなふかふかの羽布団は使ったことがないです。残念ながらたった一晩で、次の宣教地に向かいました。

ルデアの家もそんな余裕のある家だったのではないか、とおもいます。福音を聞いて、洗礼をうけて、喜びにあふれたルデアとその家族は、パウロ達からもっと沢山の話をききたい、と願ったに違いありません。おいしいご馳走をたべながら、時間を惜しんで話をきくルデアの真剣な顔が浮かぶようです。

占いの霊に取り憑かれた女
ルデアの家から、パウロ達が祈り場に向かう途中の出来事がもう一つあります。占いの霊につかれた若い女奴隷です。この女は「この人達はいと高き神のしもべたち、救いの道をのべつたえている。」といって後をついて廻って叫ぶので、困り果てたパウロは、占いの霊をおいだしたのです。すると女はもう占いができなくなってしまいました。この女は不思議な力を悪霊からうけていて、物事を言い当てるのができたので、いろんな人が占ってもらうためにこの女の所にきていたのでしょう。この女の能力を利用して商売をしていた主人が、パウロが霊をおいだしてから商売ができなくなったといって、パウロに怒りを抱き、パウロとシラスを役人達に訴えたのです。群衆もまたユダヤ人のような奇妙な存在に違和感をおぼえていたので、今回のように自分達の生活を乱すことが起きると、爆発したように二人に反対したのです。長官たちは二人を何度も鞭打って、奥の牢にいれ、足かせをつけて、厳重な見張りを命じました。二人は牢屋の中で、背中が焼けるように痛む中で、祈りつつ賛美していたのです。他の囚人達も聞き入っていた、とあります。すると、突然大地震が起きて、扉は全部あき、みんなの鎖も解けてしまいました。看守が気を失っていたのが、意識がもどって目をあけると、牢は全部とびらが空いてしまっていました。看守はおそれました。囚人達ににげられたらその責任は看守の命をもって始末をするのがローマの習わしです。看守が自害をしようとすると、中からパウロ達が、みなここにいる、と話たのでした。それは、まったくありえない出来事でした。 囚人たちは、これをチャンスと逃げ出すのが当然です。それなのにそのばにいたパウロと一行に、看守は神様のちからをみたのでしょう。

看守は二人の前にひれ伏して、二人を連れ出し、「救われるためには、何をしなくてはならないのですか?」と尋ねます。パウロは答えます。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」この言葉をうけとった看守の家の者全部がバプテスマをうけたのです。そして、二人をもてなして、夜があけると二人がローマ市民だったことがわかった長官が二人にわびて、解放し、ピリピからは出て行って欲しいと頼みました。ルデアに挨拶して、パウロの一行はテサロニケにむかったのでした。

ピリピ人への書簡
このような体験の中で生まれたのがピリピの教会です。ともに苦しみを分け合い、自分の証しを信じてくれ、パウロの指導をうけ、自分の使命を理解してくれたピリピの教会ですから、パウロにとっても格別な愛情があった事でしょう。
1節「キリスト・イエスのしもべであるパウロとテモテから、ピリピにいる全ての聖徒達監督と執事達へ。」 ユダヤ人が余り多くない土地柄なので、自分も使徒の一人だ、などと宣伝する必要がなく、一人の僕という紹介にとどまっています。この町ではパウロはあまりユダヤ人との葛藤はなかったことがわかります。しかしそれだけ異教の力が強いという意味でもあります。

2節「どうか、私たちの父なる神と主イエスキリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」 ピリピの住人の頑なさは、パウロがよくわかっていました。ですからそんな町でキリスト者として生きるあたらしいクリスチャンたちのために、パウロは恵みと平安、守りを祈らざるを得なかったでしょう。

35節は、パウロがピリピの人達のために祈ると、喜びがわきあがってくること、ピリピの教会の人々が、ずっと今まで福音を広めることに従事したことへの感謝、を表しています。ピリピの教会にはルデアとその家の者達、牢屋の看守とその家族、おそらく占いの霊をおいだしてもらった女奴隷も一緒に居たかもしれません。この人達は、イエスキリストがどんな方で何をしてくださったのかを、証ししはじめたら、とまらないほどに、イエスキリストの愛で人生を変えられた人達でしょう。
           
ルデアだったら、「私は、人生にいくら沢山の財産ができてもどんなに美しいドレスを着ても、こころはむなしくて。お金を沢山もてばもっと心労は大きくなったんです。でもイエスキリストの福音をきいて人生が変わりました!と

牢屋の看守は、「私は鎖がとけて、ドアがあいているのに、逃げない囚人達をみて、どうしてああして苦しみの中で賛美ができるのか、地震が起きたときはチャンスなのに逃げないのか。それは神を信頼していきているからだ、ということがわかったんだ。」

占いの女だったら、「私の人生は惨めでした。自分で話したくないのに、霊が全部を牛耳っていて、自分でも自分がコントロールできないようになっていたのです。パウロさんが、イエスの御名によっておいだしたら、今は霊に支配されることなく、普通に人とも会話ができ、みんなも普通に扱ってくれるようになりました!イエスキリストの御名の力です!」と、熱い思いで伝道したのではないかとおもいます。 

クリスチャンの喜び
人が良く変えられていくのをみるのは、クリスチャンにとって最高の喜びです!
笑顔が消えていた人、
苦悩に満ちていた人、
混乱していた人が神様の光をうけて、

笑顔になり、きよらかになり、希望に輝くようになるのを見るのは、本当に喜びです。パウロもそんな宣教師の最高の喜びをかえられた人生をあゆむピリピの人々に感じていたのでしょう!そして、それは、「自分が鞭打ちに耐えた、とか、立派な証しをたてたとか、弁明が見事だったから、とか自分の立派さではなく、

6節にあるように、
あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリストイエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです」すべてが、神様がはじめられ、神様が導き、神様が完成してくださる道のりだ!という信仰告白でした。パウロの祈りはつづきます。「あなたがたの人生が、イエスきリストの下さる義の実でみたされて、御業があなたの人生のあらゆる面に現れて、神様の御栄えが表されるように、」と。 

そしてパウロがこの愛するピリピのクリスチャンのために祈ったものは、彼らが豊かになることでもなく、高い地位でもなく、奇蹟を行う能力でもなく、「イエスキリスト義の実にみたされる」ということでした。イエス様の人生が見えるような生き方、をするように、といういのりでした。あの人と話をすと、キリストを感じる、といわれたらどんなにすばらしいでしょう。  私たちの口からでることばが、イエスキリストの義の実が見えるようなことばだったら、そんな人生こそ、神に栄光を帰す人生ではないかとおもいます! パウロは、キリストの義の実が、ピリピの教会の一人一人の生き方の中にあらわれるようにと祈ったのでした。 これは、私たちへの励ましであり、チャレンジです。私たちの話すことば、内容が、イエス様を感じてもらえるものとなったとしたら、どんなにすばらしいでしょう! 私たちの振る舞いが、「イエス様のきよさを感じる」、といってもらえるようだったら、どんなにすばらしいでしょう。 そんなことばに行動にあらわれるこの春を行きたいと願います。

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