2013年4月9日火曜日

「私と私の家は主に仕える」


ヨシュア記 24:1-18

イエスキリストは死を克服され、復活されました!ハレルヤ!と手をあげて叫びたいです。人類が長く探求してきた「死の解決」という課題。世界の多くの宗教は、 この死の問題をどう解決するかを求めてきたものといっても過言ではありません。死をなんとか乗り越えようと、ミイラを作ったり、不老長寿の薬を考えたり、埋葬の時に生まれ変わりを期待した形にしたりする宗教があります。もしくは、死という話題には全く触れない世界観を打ち立てて、なんとか死の恐怖からのがれられるように 、という宗教もあります。 それでも、どんな偉大な宗教をうちたてた指導者も、また、どんなに優れた医学を発展させた医者も、本人の死を克服するには至らずに今まで来ています。死とは、今まだ、全人間の最大の課題であり悲劇です。
しかし、この大きな人類の課題は、歴史の中で唯一、神が人となって来て下さった、イエスキリストによって見事に解決されました! なんと、神ご自身が、人となって生まれ、私たちのすべての罪をご自分の上に負って、私たちの身代わりとなってくださったのです。 丁度重荷を、とりさってくださったような状態です。この方の死は、そのままで終わるはずがありません!三日目に、死からよみがえり、 死がすでに効力をもたないものであることを証明してくださいました! 私たち、キリストの贖いを受けている者は、死はすでにその力を発揮できません。では、キリスト者は死なないのですか? いえ、肉体をもつ者として死は体験しますが、肉それは、死の世界の入り口ではなく、天の御国 への通過点にすぎません!  それは肉体という衣をぬぎすてるだけの事です!春になったら冬の重たいコートを脱ぐように! イエスキリストの復活がその第一の証拠なのです!ですから今日、復活祭は本当に、めでたい日なのです。クリスチャンの最高の祝福を確認する日です。お互いに、「永遠の命の祝福がありますように!」


<ヨシュア記24章> 
ヨシュアは年老いていよいよ地上の生涯をまとめる時となりました。それで、12の部族の長や裁き司などリーダー達を呼び寄せて、遺言を言い渡します。ヨシュアは、まず、自分たちの民族のルーツを思い出させました。 
ヨシュアは500年位前の先祖、アブラハム、イサク、ヤコブについて言及し、自分達がいまカナンにいるのは、アブラハムを召された神様の導きである、と再確認します。そして、時代が下って自分のリーダーだったモーセと共に体験してきた出エジプトとトランスヨルダンでの戦いと勝利についても思い出します。そして、モーセからリーダーシップを受け継いで、ヨシュアの下にすすんできたカナンの地の攻略の数々を、振り返りました。その体験の一つ一つが自分達の力では出来ることでは無いことでした。ましてや、カナン人の中にはアナク人、レファイムの子孫などがおり、かれらは巨人部族ですから、(レファイムの子孫、バシャンの王オグはそのベッドが4m)、 エジプトで奴隷を400年、続いて砂漠を40年と彷徨(さまよ)ったイスラエルには、どれ一つをとっても、勝ち目のない困難な闘いだったことでしょう。十分な武器もないイスラエル、勝ち目のないイスラエルでしたが、ヨシュアには「全能の神、宇宙の創り主、YHWH」がついておりました! 紅海を割り、マナをふらせ、砂漠に水を湧かせた、この全能の神への信仰と、従順があったので、勇気をもって御声を実行にうつすことができました!
信仰があっても、従順がないならば単なる知識です。「神様を信じているが、神様が一歩まえにでなさい、というに出ないなら、単なる知識です。従順する思いがあってはじめて、神様を信じたということになります。従順したいという思いはあっても、実行に移す勇気がないならば、本当に従順でもなく、本当に神様を信じているとは言えないでしょう。大いなる神様を信仰するという事は、大きな 信仰の実を持つということです! だれがやってもできることなら、信仰も勇気もいりません。自分の力では出来ないこと、自分の心は、「わたしには無理だ!」という事にチャレンジすることがないならば、 クリスチャンの生活は [いい人]でおわってしまうでしょう。私たちは信仰と勇気を受け継いでいる子孫です!
ヨシュアが信仰と、勇気をもって行動にうつす時、何ももたないイスラエルにも、難攻不落の地、「カナン攻略」という偉業をなしとげさせて下さったのです。同じように、私たちの人生も、神様の偉大な御計画の中で、信仰と勇気をもって神様の道に一歩を踏み出すとき、自分の力ではないことまでも、させていただけると信じます!

ヨシュアがリーダー達に語ります。
14節「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖達が川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。もしも主に仕えることがあなたがた気に入らないなら、川の向こう、およびエジプトにいたあなたがたの先祖達が仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものをどれでも、今日選ぶがよい。わたしとわたしの家とは、主に仕える!」
このヨシュアの言葉にわかることは、偶像に対する人間の弱さです。
イスラエルは、神様と契約を結び、その力を これほどまで 体験したのに、まだエジプトの神を好む者がいたのでしょう。エモリ人の神々、ダゴン、バアル、アシュタロテ等の成功、繁栄を与えると拝まれた神々、人間に従順ではなく、繁栄を与える神々を拝みたくなったのでしょう。
神への献身と従順を要求する神でなく、人間が欲しいものを要求できる神々は、人間の落とし穴です。願い事をかなえてくれる神、こちらの欲しいものだけ与えてくれる神、アラジンの魔法のランプからとびだすジンニー魔神のような神を願うようになるのです。アダムとエバが食べたのは、善悪をしる知識の木の実、それをたべたら自分が神のようになる、そういう誘惑の実を、遺伝子の中にうけついでしまったわけです。どこかで、自分の思い通りになるような神をもとめてしまう、そんな宿命の中に人間はうまれてくるのです。真の神の前にひれふして、その御声を聞き、それに従い、犠牲を払っても、損をしても、御声とみこころに従うそんな信仰をはぐくむとき、実力のある信仰がそだっている、と言えるのだとおもいます。 

日本は偶像の国です。先週もお話したように、商売繁盛の神、健康の神、交通安全の神、良縁の神、入試合格の神、など人間の願いをかなえる神々がまつられています。それを拝んだら、商売が成功する、それを拝んだら病気が治る、それに奉納金を納めたら入試に合格する、そう具体的に言われると、医者にかかってもなおらない病に苦しむひと、仕事でうまくいかないでいる人は、そちらを拝みたくなるでしょう。「偶像礼拝」とは単に像に刻んだ物を礼拝するというのではなく、人間のための神をつくる、という所に問題があるのです。  クリスライト師が、教会が直面している問題は、イスラム教やテロの問題ではなく、教会の中に入りこんでいる偶像だ、と指摘しています。クリスチャンの信仰生活の表面化に潜んでいる偶像礼拝だというのです。どんな偶像が教会に入り込んでいるのでしょう。
1)    権力と地位: より高い地位と、影響力を追い求めるクリスチャン 地位を追い求めてはならない、とキリストは言いました。先に立ちたいものは仕えるものになりなさい、と。
2)    有名になること、成功すること: どれだけ多くの人に知られるか、どれだけ多くの信者数を集めるか、どれだけ大きな教会をつくるか、などこの世的な成功をキリストの命令したことにすりかえてしまうこと。キリストは、弟子をつくりなさい、と命じたのに大きな教会をつくりなさい、と変えてしまうこと。
3)    富と欲心:豊かで贅沢な生活へのあこがれ、神様や教会をその道具とするような信仰生活

ライト師は、クリスチャンの生き方とは、キリストの教えに生きることだと語ります。キリストの行く道についていくとは、十字架と、自己犠牲の道がある、と語ります。神様の恵みは必ずあるが、成功、繁栄、権力を神と同じ位置に置き、神の道をはずれてしまう人間の弱さを、ヨシュアはよく心得ていたのでしょう。だから、自分の旅立ちの時をむかえて、もう一度イスラエルのリーダーに確認したのです。
今の誘惑にあふれる時代に生きる私たちは、偶像や他宗教が誘惑の手をのばしてくる、と。どんなに魅力的な事をみせられたとしても、私たちの人生の保証は、神様だけにある、というヨシュアの信仰は、なにがあっても、どんな誘惑があっても、「わたしとわたしの家族は、主YHWHにつかえる。」と告白したのです。私たちの神は、この神です。しばらく楽しませて、永遠の命から目をそらせる、偶像の神々でなく、真実をしめしてくださるこの神への徹底的な信頼に立って、前進していきましょう。


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