2013年4月9日火曜日

「いつまで延ばしているのか」


ヨシュア記18:1−7

ヨシュア記18章となりました。ヨシュアの指揮のもとで占領したカナンの地を、いま各部族に分割してきています。 12部族(レビは割り当て地はないが、ヨセフ族がマナセとエフライムという二人の子供に相続された)に徐々に分割がすすんできています。ヨルダン河の東がわにいたときに、モーセによって、ルベンとガド、マナセの半分が土地を得ました。河を渡ってヨシュアの指揮のもとでは、カレブ のいたユダ族には、40年前神様が最初に、カナンの地を偵察して占領せよと命じられたのに、恐れから実行できなかったまさにその地 を、カレブに託します。人数が増えていたマナセ族は、すでに河の東にも、また、ほかの部族の土地の中のいくつかの町を得ていたのに、河の西の地の分割をするときに、「くじ一つしかないのか、私達の数はこんなにふえたのだから、もっと広大な土地をくれ!」と要求しました。

リーダーのヨシュアは、マナセ族の問題を指摘しつつ、的確な指示をだしました。「人数が多いのなら、ペリジ人やレファイム人(おそらくこれらも巨人の部族、レファイムの王オグのベッドは4mx2m)の地の森を自分達で切り開くが良い」というユダヤ的な論法で応答しました。おそらくマナセ達はそのチャレンジをうけて、戦いと開墾の準備をしたにちがいありません。

こうして、だんだんと分割がされて、まだ占領が終わっていない土地もふくめて、カナンの中にイスラエルが攻めていきます。今残っているのは7つの部族となりました。

この7つの部族にはおそらくカレブやヨシュアのようなリーダーは居なかったでしょう。10人のおじけづいた斥候たちの末裔(まつえい)です。誰一人、むずかしい事に挑戦しようとする意気込みがなく、もらったものをもらえばよい、という受け身の姿勢だったのかもしれません。ほっておいたら、力のあるヨセフ部族やユダ部族がどんどんと土地を占領していってしまう勢いですから、ヨシュアは、この二つの力の強い部族には、「自分の地域にとどまるように」と念を押して、残った7部族のための土地の割り当てにはいりました。

もう十分分かったと思いますが、ヨシュアの分割というのは、全部を占領してから、戦利品として町を分割する、という方法ではありません。エリコやアイなどカナンの要所をおさめたあとは、さらに残っているカナン人の地をイスラエルの部族に先に分割して、そのあてがわれた土地を、与えられた部族が自分達でさらに戦い、占領して獲得するという図式です。ですから、ヨシュアのいるエフライム、カレブのいるユダなどは、その優れたリーダーシップの下で新しい戦いにいどむことも可能だったわけです。しかし、のこりの7つの部族はそんなリーダーも居なかったようで、 戦いにでよう、 という意気込みも出ず、ただじっと自分にもらえるものを待っていた状態だったのでしょう。7つの部族の声が聞こえるようです。「私達にはヨシュアやカレブのような人材がいないんだ。。。人数も少ないし。。。おこぼれ程度の土地でもいいと思っている」 

そんな7部族にヨシュアは叱咤激励(しったげきれい)します。3節「あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えられた地を占領しにいくのを、あなたがたはいつまで伸ばしているのか!」 

遅らせるということは、しばしば性質程度で考えていないでしょうか? わたしは事をするのが遅い。動作がゆっくりである遅いは、これは問題にしていません。しなくてはならない事があるのに、意図的にそれをしないで時をすごすこと、これが遅延の罪。(耳がいたい。)
人を傷つけるのでもなく、盗むのでもない、「遅らせる」ということがどうして罪なのか、考えてみました。

1.     時間の価値 を考えない=優先順位がただしくない、神様が下さった時間は限りがある事実。
2.     神の御声にしたがわない → 従う内容とタイミング、神様がしなさい、してはならない、ということをするかしないか、は重要。しかし、早くしてしまうこと、遅くすることも不従順。 
3.     戦いに即座に出ていかないなら勝利はない → 歴史の中で、クリスチャンが霊的に戦わないと、他が勝利する。ローマ帝国キリスト教化された後、バーバリアンとよばれた周辺民族の侵入が多かった。クリスチャンは奴隷になっても、信仰の証しをしつづけて、周辺民族の中にキリスト教が浸透。バーバリアンがローマの中心を襲ったとき、教会は破壊しつくされはしなかった。ほっておいたら、戦わずに居たら、敵がまちがった教えをするグループが占領していくのです。
  
ジョナサンエドワードはこの遅延の罪を、「あしたがある」、と容易に考えることの問題として説教したなかで、次のような点もあげています。
私達がおくらせるのは、
この世のことに心がうばわれるとき。
他の人のことに心がうばわれるとき。
自分を誇ることを追求するとき。
罪を容認するとき。
神様の中での憩いでなく休もうとするとき。

ヨシュアの7つの部族への激励は、ただ体当たりせよ、というものではありませんでした。調べなさい! 調査してそのあとで、平等になるように分割して、それから、くじをひきましょう。というものでした。ビジョンをあきらかにして、担当者が平等になることを考慮して、やる気がたもたれる条件をしっかりとまもってのヨシュアの決定でした。

もしヨシュアが私達の生活をみたら、なんというでしょう? 「いつまでまっているのか!」もしイエス様が私達の一日をごらんになったら、なんといわれるでしょう? 「あなたにはすでに与えたものだ、いって勝ち取りなさい!」 わたしも、のばしのばしにしていることに当たり隊と決意します。


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