2013年4月9日火曜日

「自分で切り開くがよい」

ヨシュア記17:14-18

ヨシュア記17章後半に来ました。カナンの地を次々と占領していったイスラエルの民は、12の部族にそれぞれの割り当て地を与えました。分割はユダ部族(カレブはこの部族)に始まり、ヨセフ族が続きます。ヨセフへの分割は実際は彼の二人の子供エフライム族とマナセ族が受け継ぎました。マナセ族が分割を受けたとき、マナセの長男のマキルは名高い戦士でしたが、そのひ孫にあたるツェロフハデには男の子が生まれなかったのです。彼は、戦士の家系でありながら、その血を自分の子孫には伝えられない、という苦悩をかかえて人生を過ごしたことでしょう 。まだモーセが指導者だった時、ツェロフハデがその苦悩を訴えると、神様はモーセに 、「ツェロフハデの家には娘達に相続地を与えよ。」と命じ、また、このような事情のある家族には、娘、兄弟などその近親者がうけとるようにして、その家系が利益からもれないようにせよ、との規定も作らせました。そして、今実際にヨシュアが分割する段階になり、ツェロフハデの娘たち5人は、「自分たちにも割り当て地をください!」とヨシュアに訴えてでたのでした。もちろん、ヨシュアは神の語られた言葉をまもって、この5人の娘達にも土地の分割をしたのです。

こうしてヨセフの息子、マナセとエフライムも、しっかりと広大な土地を手にいれ、その中の氏族や家族にも細分割がされたのです。(地図)マナセがうけとった土地は川の両岸に あります。もともと川を渡る前にモーセから受け取った東岸の地があり、それはバシャンとギルアデと呼ばれる肥沃な土地でした。(バシャンとはやわらかな、という意味、牧用地に適していた場所)、それでヨシュアの下に分割されたのが、西岸の土地であり、それも広大な土地でした。それなのに、かれらはヨシュアの分割に文句をいいます。

14節  主が今までわたしを祝福されたので、わたしは数の多い民になりました。あなたはなぜ、わたしにただ一つのくじによる相続地しかくださらなかったのですか?」 

このヨセフ族の表現の中には、人が陥りやすい心境が現れています。
1.     まずは、「神様が下さって数が増えたのに」、と神様を引き合いにだすこと。自分の欲心を満足するためにしているのに、神様を引き合いに出す、ということ、より自分の主張に箔(はく)をつけて、もっともらしく聞こえるようにします。本当は自分がやりたいことですが、神が導いてくださった、というと、自分の欲求の追求を、上手に霊的に隠してしまうことができます。(本当に導かれている場合もありますから、導き、という人全部が全部ではありません。とても見た目に格好の良い友人がいました。ミヤンマー人ですが、彼が日本に来たときに、ある教会で説教をしたら、終わったときにとてもある女性が近づいてきて、「神様があなたと結婚するように語られました。」と行ってきたそうです。ですが、彼はすでに婚約していました。この女性は自分の願いをもっと権威づけるために神様が、と神様を用いているのだと思います。結婚は二人の人が関わることですから、神様は二人にかたるはずです。神様という名前をつかって、自分の欲心を正当化する弱さがここに表れています。

2.     次にヨセフ族がしているのは、あなたはなぜ、と個人攻撃をしていることです。分割はおそらく神の前に部族の長たちが集まって決めたことなのに、ヨシュア個人にむけての攻撃となっています。 すべての人間の営みには、じつは神様が主権をもって許しておられることなのに、神様の君臨と愛とに目をむけなくなると、目にみえる人間がしている事とだけおもって、恨み辛みをぶつけてしまうのではないでしょうか。がっかりすること、辛い状況も、自分を含めて人間がただしていることでなく、神様が大きな視点でそれを許しておられるのです。神様の主権と目的をもって。 それをわすれて、関わった人を個人を攻撃したくなるときは、神様に目をむけてください。かれらの大先祖ヨセフがじつはこの過ちを乗り越えましたね。ヨセフは自分を売り飛ばした兄弟が、目の前に悔いてひれ伏したとき、「このことをなさったのは神です。」と、主権をもって導く神様を視点にいれて、兄弟を責めませんでした。ヨセフ族はこの霊的な遺産をしっかりと受け継ぐべきでした。

3.     3つめの人間のしやすい間違いは、ただ一つのくじしかもらってない。自分にはこれしかない、と持っていないことに目をとめてしまうことです。マナセ族の人数はおそらく6万人くらいだったそうです。ユダが76500、イッサカルが64300人ですから、マナセがうけた広大な場所はむしろ不当な広さといえます。しかもヨセフ族はその双子の子供、マナセとエフライムのそれぞれが相続地を得ているので、一つのくじとは言えないのに、ここでは、一つしかもらっていない! と文句を言っているのです。なんと1711節には、イッサカルとアシェル族の土地にも、マナセの町があたえられていると、あります。沢山もっていたんですね。それなのに自分には一つしかない、と言っているのです。ヨセフ達が、マナセ、エフライムがヤコブの子供として扱われるという特権をうけたわけで、さらに調子づいて、もっとくれ、という頭(ず)に乗った態度がここに見られるヨセフ族なのでしょう。与えられているものへの感謝の気持ちでなく、欲心から、自分に無いものをねだって文句をいっているわけです。さて、このように自分の欲心と歪んだ劣等感をもったヨセフ族に、ヨシュアはどう対応したかを見てみましょう。

17節 するとヨシュアは、ヨセフ家の物、エフライムとマナセにこういった。「あなたは数の多い民で、おおきな力をもっている。あなたは、ただ一つのくじによる割り当てだけをもっていてはいけない。山地もあなたのものとしなければならない。それが森であっても、切り開いて、その終わるところまで、あなたのものとしなければならない。カナン人は鉄の戦車をもっていて強いのだから、あなたは彼らを追い払わなければならない。」

ヨシュアの応答は画期的です! まず彼らのニーズを理解しています。「あなたの数は確かに増えた。だから広い土地が必要だということもわかる。しかし、その要求を簡単にのまずに、状況全体を把握してこういいます。あなたには人数も戦力も十分にあるのだから、自分の力で山地を開拓して自分の領地とせよ。まだ追い出し切れていないカナン人、鉄の戦車をもっていて強いが、私達にはここまで勝利をあたえてくれた神様がいるではないか!自分の力で立ち上がって、自分の可能性を発揮して、道のないところに踏み出してすすんでいきなさい!」 これはヨセフ族にとっては、顔に水をかけられたような目のさめる発言だったに違いありません。 信仰による発想の転換です! 何もないところに、何かをつくりだしていく開拓者精神、パイオニアスピリット!それを発揮して、神様により頼んで、自分に与えられている賜物を十分にいかして、道のまだないところを前進しなさい!と。イエスキリストもたとえ話の中で、5タレントもらった人はその投資を発揮して5タラントを稼いだ、2タラントをもらった人は2タラントを、しかしある人は1タラントしかもらってない、と地にうめてしまってなにも触れもしなかった。その僕は主人の怒りをかったという話をされました。神様の下さった賜物があるのに、他の人と較べて「自分には何もない」と自己卑下におちいり、神様の下さった様々な賜物や機会をもちいないで終わってしまうなら、この怒りをかった僕と同じです。神様の愛と主権を信じて下さい。神様が造って下さった自分を信じて下さい! 信仰の発想転換をするならば、神様の視点で問題をみるならば、思っても見ないところからの解決、それは努力を要し、戦いを要しますが、その後に勝利のある道が開かれます。

William Cary は英国からインドにきた最初の宣教師です。 かれは靴屋にうまれましたから、宣教師として認められるのは大変でした。また、靴をつくるスキルをもっていたのですが、それを使って商売したら、支援は十分ではなくても生きていけると考えました。ところが、インドについたら、なんとインド人は靴をはいていないのです。靴やの商売はどうなるのでしょう。Williamは、「だめだ!だれも履いていない、これでは生活は成り立たない。と落ち込みませんでした。むしろ、「まだ、だれも履いていない!この地に靴をはやらせたら、大当たりの商売になる!」と神様にあって、状況をみなおしたのでした。 かれは近代宣教の父とよばれる宣教師となりました。神様の下さったものを感謝して、荒れ地にも踏み込んで、御国をきりひらいて行きましょう!


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