2013年5月11日土曜日

「キリストの福音にふさわしく」


ピリピ人への手紙 1:27-31

  先週は中東の宣教にでかけ留守にしました。三輪先生はお元気でしたか?小堀さんのピアノとお証しはいかがでしたか?すばらしかったでしょう?小堀先生からさっそく、ハレルヤでの奉仕とおまじわりをとても楽しんだと、お礼のメールが届きました。いつかコンサートも開きたいですね。  
  さて、わたしのヨルダンでの女性の大会も、神様の特別な祝福を受けました。PPTをみてください。ヨルダンはイスラエルの隣の国、名前の通りヨルダン河に面しています。(PPTの説明)前回私たちはヨシュア記を学びましたが、大会がおわってホテルから空港に向かう途中に1時間でいけるから、といってネボ山の頂上に連れていっていただきました。モーセがその生涯の最後に、この山からカナンの地を見下ろした所です。それは、ヨシュアがモーセからリーダーシップを渡されて、ここからカナンの地を見下ろした山でもあります。向こうに見える緑の町がエリコ(棕櫚の町)、左側が死海の辺りになります。神様の遣わして下さる戦いを勇気をもって前進しなくては、と、思わされてもどりました。お祈りを感謝します。


ピリピ書から
<背景>  
                  ピリピの教会を建てた時、パウロ達は大変な目に遭いました。占いの霊に憑かれた女をその霊から解放した時、その女で稼ぎを得ていた主人達から訴えられ、一行はよく調べも受けないままで、鞭打たれ、足かせを着けられて奥の牢に入れられました。夜中に牢の中で賛美と祈りをしていた時、突然大地震がおきて、牢の扉は開き、足かせも外れてしまいました。しかし、だれも逃亡せずに居たことで、そこの牢屋主が信仰に導かれ、先に信仰に導かれていた女商人のルデア達と共に、ピリピの町にも家の教会が産まれたのです。この教会がこの後パウロの宣教を大きく励まして、支えていくようになります。
  この出来事の後、パウロは小アジアとヨーロッパを中心に あちこちの町に教会を建てながら宣教を続け、約10年後、パウロはローマの地で再び逮捕されて投獄されていました。パウロの人生は、本人も回顧しているように、多くの迫害と苦しみに溢れたものでした。このローマでの投獄もその中の一つです。しかし軟禁状態だったので、ここでは執筆などを続ける事が許されたようで、なつかしいピリピの教会へ綴った書簡が、ピリピ書です。

<パウロの生き方>
  この時までに、彼の背中はいくつもの鞭の後が生々しくついていたに違いありません。数々の困難や迫害で、彼の人生は苦難の連続であったと告白しています。通常、そんな人生を送った人は、体だけで無く心もどれほど苦渋に満ち、傷ついて扱いがむずかしい存在になるだろう、と考えるのですが、ピリピ書を読むと、そんな重たさや暗さが全く感じられません。一章の初めから、「私はあなたがたの事を思う度に私の神に感謝し、祈る毎に喜びをもって祈り、最初から今日まで熱心に福音を広めてきたことを感謝しています。」(3節)と感謝と喜びの表現で始めています。
            また、投獄されたが、そのせいで兄弟達が信仰の確信を持つようになって、福音が前進しているから嬉しい、と。なんと積極的な考えで状況を見ていて、自己憐憫に浸るようなそぶりもないことでしょう。


<パウロの状況>
読みすすむと、投獄だけでなく、クリスチャン仲間から、非難される事もあったようです。パウロはもともと迫害者でしたのでそんな目手見られることもあったでしょう、また、12使徒の中には初めから選ばれていなかった事もあるでしょう。他の使徒と同じように尊敬されない事も多かったのではないか、と予想されます。事実、パウロは他の使徒とは異なって、天幕造りをしながら生計をたてて、宣教を続けなくてはなりませんでした。
天幕造りは簡単な仕事ではありません。動物の屠殺(とさつ)に関わり、その皮をなめすのには、何度も強い薬品につけ込んで、その薬品の中で、足で踏んでもみほぐすのです。なんども熱い熱で処理をしたりする、大変な労力を要する仕事でした。その臭いも予想ができるでしょうか。そのような仕事を請け負い、自分の生活を支えつつ、宣教をつづけたのです
パウロは異邦人への宣教へと召された使徒として、じっくりと自分の教会を建てて、それを大きく育てて、自分の足場を固めていくというような事は、できませんでした。 
           
「あいつは裏切り者だ。」といって攻めるユダヤ人、「騒ぎばかりおこすユダヤ人」と言ってけむたがるローマ人やギリシャ人、そして、 クリスチャンからも、非難の対象になっていたのです。
           
教会の中ではどんな人が、パウロを非難したのでしょう?パウロの豊かな賜物や、イエス様から受けた大きな役割は、時にはねたみや敵対心を呼び起こしてしまったのかもしれません。教会も人の集まりですから、いくらクリスチャンであっても、人間の弱さと罪深さはいろんな形で、出てきます。おそらく、競争心やねたみから、パウロに敵対する人もいたことでしょう。
今まで沢山の教会を訪問しましたが、どの教会にも、自分の力を見せたがり、自分の影響力を広げたがる人は一人はいました。信仰があることは間違いないのですが、神様に純粋に仕えることよりも、教会の中でより大きな影響力を得て、より高いポジションを狙うというような、教会が自己実現の達成の場所となってしまっているような人が一人二人はみうけられました。

このような人の前に、とつぜん、論理のしっかりした、情熱があり、影響力があり、しかし短期間だけ訪問して、みんなの心に感動をあたえるような パウロのような存在は、どうしても気にくわない、と思う人がでてきます。
            すると、ねたみから、パウロの過去の問題やら、どんな点でも非難できるところを見つけて文句をいうわけです。 一致を崩すおおきな要因です。嫉妬や懐疑心が、教会の本来の成長を妨げることが、どんなに多いことでしょう! 嫉妬はサタンの道具です!  しかし、パウロは、こんな党派心からでも、キリストの福音が広がって行くのなら、それはすばらしい事だ!と肯定的な視点で見つめます。そして、それは、彼の死生観にも通じて、「生きる事はキリスト、死ぬことも益です!」というすばらしい信仰の宣言になっています。彼の人生は、完全に聖書的な世界観、聖書的な死生観、に土台をおいた揺るぎのない人生となっていたのです!
           
<パウロのメッセージ>
パウロは今はローマで投獄されているが、いずれ、ピリピにも帰ることができる、と確信がありました。(26節)それで、自分がピリピに帰る時まで、この一つだけを心していてください! という勧めを綴ります。
ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい。」 
パウロはコリント書で、キリストの福音とは何なのかを説明しています。
1.キリストが私達の罪のために葬られたこと。
2.三日目に蘇られたこと
3.弟子達の前に現れて下さったこと。

そして、ピリピの信徒に、この3点にふさわしい生き方をするように、と言っています。この3点にふさわしい生き方とはどういう生き方でしょう? 
           
            まず、1は、罪の全てが、キリストによって完全に処罰されたこと、です。
私たちの人生の中で「あんなことをしてしまったから」という責めに苦しんでいないでしょうか。イエスキリストの十字架の下にその罪を置くならば、キリストの贖いは、その重荷を完全になくす事ができます! 罪がたとえ、死刑に値すべき程の重い罪であっても、です。            
            2.イエスキリストの贖いは完全に成就したので、神の御子であられるキリストは死につながれている必要がありません。キリストの贖いを受けた者は、死から蘇えることができます!私たちの蘇りの初穂として、キリストが蘇られたのです。私たちの死んだような生活や、暗い影は、キリストによって、完全に蘇ることができるのです。キリストの光が差し込んだら、影はにげさるしかありません。私たちの人生の死んだ部分は、キリストの光の下で、蘇るのです。 

            3.それは単なる弟子たちの希望や期待ではなく、確かに復活された証しが、みんなの前でなされました!証しがあるのです!キリストの人生がどれだけ人生を変えることができるか、私たちの周りに、沢山の証しがあります。証し人が沢山います! そして、私たちもまた、そのイエスキリストの福音の力の証し人として、人びとに、福音の力を 大胆に伝える者として、証しの人生を送ることが、パウロが、この一点だけ追求してください、という勧めの言葉でした。

            キリストに赦され、購われ、蘇らされた者として、その証しに生きるのが、クリスチャンの人生なのです。

<福音にふさわしい生活> 
福音にふさわしく、ということばは国籍ということばと関わる言葉です。イエスキリストの福音というアイデンテイテイ、私たちのどこを切ってもイエスキリストの福音、がとびだしてくるような生き方! ことばも、行動も、振る舞いも、突然の出来事に直面したときも、傷がついたときも、そこからイエスキリストの福音が垣間見れるような生き方! 中がわが、イエスキリストでいっぱいになっているような生き方、といいますか。
そのような生き方をするとき、教会は霊による一致を体験でき、心をひとつにして信仰の戦いを共に戦うことができ、どんな反対者がでてきても、ゆるがされることは無い!というパウロのメッセージでした。

            私たちも、もう一度、イエスキリストの福音が自分の生きる土台となっているか、罪の責めから解放されているか、あたらしい命に蘇っているか、を確認しましょう。すべての罪から私たちは今解放されています。赦されています。赦し合うことができます!命あふれる人生を始められます!内にすんでくださるキリスト様が、私たちの生き方となるように、主の御名で祝福します。

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