2013年9月7日土曜日

「心の割礼」

ピリピ人への手紙3:1−9

ピリピというのはギリシャ半島の町、エーゲ海を挟んで小アジア、今のトルコとむきあっている町。ここにはユダヤ人があまり多くはいなかったせいか、シナゴーグ(ユダヤ人の礼拝所)はこの町にはなかったようです。それで、パウロ達が教会をはじめたときには、ユダヤ人達もここで神様を礼拝できると思って集ってきたのだとおもわれます。
ユダヤ人たちは、自分達の慣れ親しんできた礼拝をしているかとおもってきたら、なんとこの教会には、ルデアや、牢屋の看守のように異邦人が自由に出入りして礼拝をしているわけです。割礼もうけないで、ユダヤの神様(YHWH)をおがんでいるので、いろんな文句が浮かび上がったと思われます。 

「彼らは割礼も受けないで礼拝に参加している!」 「母親がユダヤ人なのはテモテだけだ、ほかはユダヤの血筋のこれっぽっちもない異邦人ではないか!」 「律法もしっかり学ばず、それを遵守することもせず、いったいこれはどういうシナゴーグだ!」 「パウロの教えは間違っている!」 様々な批判が、ピリピの教会にあびせられたことでしょう。 

それで、せっかくイエスキリストの福音に基づいて建てられた教会なのに、いつのまにか「割礼」「血筋」「律法をどれだけまもっているか」こんな事が大事にされて、人々が混乱しはじ めたようです。それで、パウロはピリピの教会の信徒達に、「彼らに気をつけなさい!」と警告を送りました。ユダヤ人について、パウロは厳しい呼び方をしていますね。 犬、悪い働き人、肉体だけ割礼をうけた者。

ピリピのクリスチャン達にパウロが教えたのは、十字架にかかり、死んで、復活したイエスキリストによる救いの恵みでした。律法を守ることではなく、この方の贖いの恵みによる救いこそ、神様が準備してくれた救いの道だと、パウロは自分の回心の体験をとおして知ったわけです。 それなのに、ユダヤ人たち(パリサイ派)が、イエスキリスト抜きの、律法をまもったら救われる、という教えをもちこんできたわけです。

ここでパウロは二種類の信仰者を対比させます。神の御霊による割礼と、肉体の割礼の人です。


神の御霊による割礼
肉体だけの割礼
キリストイエスをほこる
   自分の弱さを認める
   神からあたえられた義
   イエスキリストの十字架
   

人間的なもの・事をほこる
   割礼の有無
   民族 (国籍)
   家系 
   学歴
   職歴
   達成したこと

パウロはこのように肉体だけの割礼には意味がないことを語ったあとで、自分のことに言及します。もしユダヤ主義者達がこのような見えるものを主張するのならば、私自身はそれにひけをとらない、と。
自分は8日目の割礼をうけ、出身はイスラエル民族、家系はベニヤミン部族(ヨセフの家系)、きっすいのヘブル人という血統ももち、信仰・教育は当時の社会エリートとして最高のパリサイ派、信仰の姿勢も熱心でユダヤの教えを守らない者は迫害したほどに徹底したユダヤ教徒だった。 律法は、だれから何もいわれることがない程に厳格に遵守した。
これは、パウロの切り札のような経歴です。 これだけいったら、ユダヤ人は、あっけにとられて、パウロに対して何もいうことはできません。 
日本人の大好きなテレビ番組に、水戸黄門というのがあります。本当は将軍なのに、一人の商人のなりをして、地方の一般民衆の生活をみてあるき、わるい領主が民衆をくるしめていたら、やっつける。という番組です。これはいつも同じパターンで終わります。 悪い領主が、文句をいう水戸黄門を殺そうとすると、最後の最後に、一番弟子がおもむろに、印籠(家紋のはいった将軍家のものだけがもつことがゆるされるかざり)をとりだして、「ここに居られる方を、だれだとおもうのか!水戸光圀公なるぞ!」というと、みんなが戦いをやめて、地面にひれ伏す、という話。気分がいい終わり方なのが、人気の秘密でしょう。 

パウロにもじつは印籠のような肩書きと達成したものがありました。このリストを聞いたら、目がまるくなるような経歴です。エリート中のエリート。ふつうなら、鼻を高くして、自信ありげにふるまってもよい人物でした。
「しかし、主キリストイエスをしっていることのすばらしさの故に、いっさいのことを損、ゴミと思っています。」それどころでなく、ちりあくた、ゴミ箱にいれて、てではさわりたくないような汚い物のように、ゴミ箱に投げ入れた後にもう一度手をあらいたくなるような汚いゴミだと思っていると、まとめます。

さて、私たちの信仰はどうでしょう。
洗礼を何年前に受けた、家系が著名、学歴社会ではもし自慢したくなるような学歴があったら、パウロの言葉はどんなにかチャレンジでしょう。もしかしたら教会も。建物の大きさやすばらしさが、誇りの材料になっているとしたら、パウロの境地にはいたっていないかもしれません。「わたしはこれらすべての物をすてて、ちりあくたとおもっています。」

これは、パウロがキリストイエスをしっているすばらしさの故だと説明します。 

私たちがイエス様のすばらしさをもっとわかるとき、この世の物、人間的なものに頼る思いはもっと小さくなるのでしょう。主イエスキリストのすばらしさを味わう6月でありますように。   

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