2013年9月7日土曜日

「敵に備えて」

 ネヘミヤ記4:15−23

昨晩の夏期特別いのり会は主の恵みをあじわう一時でした!賛美の中に主の臨在があふれ、祈りを通して、心を合わせることができた貴重な時間 でした。恵みの証しをききたいとおもいます。<証し> いそがしいスケジュールの中参加してくださったみなさんに感謝します。今回参加ができなかった方々にも、恵みが届くようにお祈りしました。 皆さんもどうぞ、日本語礼拝のだれかのために、また、日本語礼拝のこの秋・冬の働きのために、おぼえてお祈りください。

暗唱聖句「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが私のあなたがたに与える戒めです。」
ヨハネ15:17

ネヘミア4章 <前回から>
ネヘミアに与えられた城壁の再建のビジョンは大祭司エルヤシブをはじめ、心ある人びとの自主的かつ献身的な奉仕で始められました。弟達を呼び出して兄弟で作業に当たる者、娘までかり出して作業をする者、そして、角や門などの大変な部所を自主的に担当する者が出て、喜んで献げる者達の奉仕で、修復工事はどんどんと進んで行きました。
<妨害とその対処法1>
しかし、それを良くおもわない人物もいました。先週も名前がでましたホロン人のサヌバラテとアモン人のトビヤです。今日の箇所では、彼らの妨害がどのようなものだったのかが詳しく記録されています。 1節に、「サヌバラテは城壁の修復工事が進んでいることを聞いて怒り、また非常に憤慨してユダヤ人達をあざけった」、とあります。「この哀れなユダヤ人達は、いったい何をしようとしているのか。あれを修復して、生贄を捧げようとするのか。一日で仕上げようとするのか。やけてしまった石を、ちりあくたの山から生き返らせようとするのか。」この捨て台詞のような言葉を読むと、サヌバラテの顔が怒りで真っ赤になって、どなり散らす様子が目に浮かぶようです。又、トビヤも、「あいつらが建て直した城壁なんか、きつねが上っても壊れるくらいの物がせいぜいだ!」と軽蔑しました。そんな罵声を聞いて、ネヘミアはどうしたでしょうか? ネヘミアも怒りに満ちて、「ユダヤ人をばかにするな!おまえ達など、やろうと思えば、ひとたまりもなくやっつける事ができるんだ!この異邦人が!」と、この二人へ、同じ様な罵りの言葉をぶつけたでしょうか?  いいえ、ネヘミアは、まず、神の前にでて、祈っています。4節 「お聞き下さい、私達の神。 私達は軽蔑されています。彼らのそしりを彼らの頭に返し、彼らが捕囚の地でかすめうばわれるようにしてください。」 自分で相手の胸ぐらを掴んで、やり返すのでなく、神様の前に心を注ぎだしています。そして、彼らの悪の裁きを、神様に委ねています。裁きは神のもの。
私たちの人生にも、怒りをおさめられないような事態が起こることがあります。一番聞きたくない事をいわれたら、売り言葉に買い言葉、簡単に飛び出します。相手が使った罵声よりひどい罵声で、仕返ししたくなります。しかし、ネヘミアは、買い言葉をださずに、その場では沈黙を守って、神様の前にでて祈りました。そして、相手への裁きも、神様に委ねています。神の民の取るべき態度はこれです。怒りは神の義をもたらしません。 

<対処法2>
ネヘミアは、裁きを神に任せて、自分は本来やるべき事に集中しました。やる気を出して、仕事に臨んだので、城壁は思ったより早く、半分の高さまで完成しました。それを見たサヌバラテ、トビヤらは、怒って、更に攻撃的になり、「完成しないように、エルサレムに攻め入ってやろう!」と、企てました。そんな情報が流れてきたとき、ネヘミアはどうしたでしょうか? ここでも先ずしたことは、神に祈ることでした! ただし、今回は、祈って終わるのではなく、その後で、人間の力でできる限りの事をしています。まず、敵の侵入に備えて、日夜見張りをおくようにしました。 修復の工事だけでも、大仕事なのに、それに見張りという仕事が加わるのは、大変な事だったでしょう。それで、とうとう 仲間であるイスラエル人達が、「もう無理だ。やることが多すぎる!」とあきらめはじめたのです。敵が侵略を企てているときに、味方の中から、「無理だ!」というあきらめの声をきくのは、ネヘミアにはとてもがっかりする事だったでしょう。しかし、ネへミアは信仰に奮い立って、民を励まし続けました。「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき方は主お一人ではないか!この方を覚えて、家族のために戦いなさい!」と。イスラエルの民は、言われた通り城壁の低い所に立ちました。彼らができたことは、ただ立っただけなのですが、この立つ、という事がサヌバラテ達に伝わった時、なんと彼らの襲撃の計画は中断されました。そして、イスラエルは工事を継続できたのです。

この箇所から、私達は 霊的戦いの勝利の秘訣を学べます。霊的な戦いで攻撃を仕掛けられたら、(1)直(じか)に敵に応酬せずに、神様の前にでること。そして、相手ではなく、神様に自分の心を注ぎ出します 。丁度、子供が親に助けを求めるように、相手のしたことの理不尽な行為への怒り、失望、自分の願い、ありのままを神様に聞いて頂くのです。(2)そして、祈った後は自分にできる最善をすること。ネヘミアは、祈った後で、見張りをおいて、敵が侵略してこないようにしています。いつ敵が襲ってきてもいいようにという備えをしました。とても不便でしたが、工事をする時に、片手に道具、片手には武器、という状態で働きました。 ネへミアのそばには角笛を持った者がいつもおり、緊急事態を民に知らせる準備をしていました。 一触即発の緊張の状態がつたわります。 イスラエルは人数においても、武器の数も、訓練も十分ではありません。そんな状態で、2交代制で、夜中も見張りをつけて、修復工事をつづけるという厳しい状況でした。夜寝るときも服をぬがずに、武器の投げ槍を手にして夜をすごすという、そんな努力をつづけて、城壁の修復を遂行したのです。

ここには、私たちが霊的な戦いをするときに、学んでおくべき事があります。まず、神様の使命を全うしようとしているのに、敵が現れ、妨害を始めるという事実があることです。神様のためにする事なら、全てがスムーズに進むとは限りません。むしろ、神様の使命だからこそ、それをなんとか妨害しようとする敵がいるのです。そんな攻撃をうけたら、まず私達がすべきことは、1.神様に祈ることです。人間的な 衝動を押さえて、まず神様の前にでる事です。2.悪いことを言ったり、企んだりする敵については、裁きを神様に任せる事です。自分が手をだしてはいけません。裁きは主のものです。3.自分がなすべき事をしっかりとする事です。敵の攻撃をどう防御すべきかしっかりと考えて、対処するのです。
病気にかかったとき、無神論者は、医者の力や薬などで健康の回復を努力して解決しようとします。なんでも霊的に片付けようとする人は、薬や医者を拒絶して、祈りで解決しようとします。わたしたちは、祈って、そして、人間としての最善を尽くし。

神様がわたしたちに脳を与えて考える力、決断する心、自然界の中にいきるものとして、体もくださいました。食べたり、飲んだり、運動したり、やすんだりこれは健康を維持する大切な要素です。しかし、注意深くこれらを守っていても、病気になったり、怪我をしたりします。原因はかならずしも見つかりません。そんなとき、自然を超えたかた、主なる神様の憐れみと、力に依存してよいのです。 

ネへミアはまず祈りました。 そして、人間的にできることの最善をつくしたのです。
これこそ、わたしたちの方法です。祈りましょう。最善を尽くしましょう! そのようにして、神様のくださったビジョンが実現していくように、途中でとどまることがないように、前進していきたいとおもいます。 




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