2013年9月7日土曜日

「崩れを建て直す」

ネヘミヤ記1:1−11

この夏、ハレルヤ教会から神戸宣教チームがでかけられることを神様に感謝します。このチームが神様の働きを用いて下さって、神戸の教会がはげまされるように、神様の業があらわれるように、おいのりください。今回、皆様からの沢山の献金で、聖歌40冊、ギター、韓国の食材など、沢山の物をもっていくことができ、皆様のはげましに心から感謝いたします。みなさんの愛と献身をチームがもっていきます。水曜日出発です。お祈りをよろしくお願い致します。

暗唱聖句「わたしは福音を恥とは思いません。」ローマ1:16

今日から、旧約聖書のネヘミア書を学びたいとおもいます。日本の社会を見ると、様々な秩序が崩壊しているのがわかります。最近おきた悲しい事件がそれを物語っています。16才の少女達7人が、おなじ16才の少女に、夜通し暴行を加え殺害して、山の中に遺体を遺棄したのです。その子たちは接客業をしていたとあります。アマチュアの売春でしょうか。その中の数人は、親に育児放棄されて、かれら自身が生活保護を受け、自分で生活をしていたようです。人間の価値、自分の価値を教えてもらえなかった少女達の、行き着いた所だったのでしょう。また、こんなニュースもありました。一人歩きの女性を車ではねて、助けるどころか大けがをした人のハンドバックを二人の若い男たちが奪って逃げたのです。また、日中3時のビジネス街で、小道を歩いていた女性が男に棒で頭をなぐられ、バックが奪われました。日本で、犯罪が極悪化、一般化、日常化していることが分かります。 日本は社会秩序ががらがらと音を立てて崩れてしまってます。こんな社会で、政治家たちがどれだけがんばっても、一人一人の人生を変革することは出来ません。人を生かし、家庭を建て直し、社会を生かすことができるのは、神様の愛と正義を知る 人、クリスチャんだあり、教会です。しかし、教会に参席しているクリスチャンが0.3%では、社会に与える影響力が十分ではありません。 教会自体も、伸び悩み、閉塞感に悩まされている所が多々あるとのこと。牧師先生のいない教会はすでに1000を越え、230人の教会がほとんどなので、くずれた社会を修復する程の力がないのです。

しかし、神様の前に不可能はなく、神様の、私たち人間への憐れみは、尽きぬ事がありません。それは、聖書の中で、捕囚とされていたイスラエルの民が、崩壊していた城壁の建て直しを完成させた、というネヘミア記の記録にも、みることができます。がらがらに崩された城壁ですら、神様のビジョンをうけた民によって修復が可能なのです。これから数ヶ月間、崩壊した国の再建を果たしたネヘミア記から、神様の御思いを学んで行こうと思います。  <祈り>

歴史的背景から、理解しましょう。エズラ、ネヘミア、エステル記はほぼ同時代に書かれた書物です。図を見て下さい。イスラエル王国の歴史の中では、旧約聖書の最後の段階です。アブラハム、イサク、ヤコブ、12族長、ヨセフがエジプトの首相になり、そのままイスラエルの民(ヘブル人)はエジプトに定着して400年がすぎました。神様の民として選ばれたのに、多神教の国エジプトの中で、純粋な礼拝、霊性を保つことはできません。神様は、イスラエルに命じます。荒野にでて私を礼拝せよ。そして、つづいて、約束の地を与えて、そこを治めるようにと。モーセが出エジプトを導き、カナンの攻略はヨシュアがリーダーとして立てられて、達成をしました。そして、そこにイスラエル王国が建てられ、サウル、ダビデ、ソロモンと王国の拡大が成されました。しかし、ソロモンの後、みこころにかなわずに歩みはじめたイスラエル王国を、神様は分裂という形で、お仕置きをします。北イスラエル、南ユダの国に分裂しました。それだけも、恥ずかしい事ですが、悔い改めて御言葉にかえろうとしない北イスラエルは、722年、異邦人のアッシリア帝国に攻略されて、民は奴隷として捕囚されてしまいました。それを嘲(あざけ)るように見ていた南ユダも、実は神殿の礼拝はしていたも、その内実は形だけの礼拝、神様のみこころに従って生きる人はわずかで、正義も、きよさも、忘れ去られたようなイスラエルの民と成り下がっていました。
ですから、アッシリアの次に出てきたバビロニアという帝国を用いて、ユダの国も滅ぼされ、民は奴隷としてバビロニアに連れていかれてしまったのです。

これは、イスラエルには、なんという辛い事でしょう。周辺民族は、突然エジプトから出てきたイスラエルの民が、次々と自分達のすんでいたカナンを征服して、イスラエル王国を建ててしまった過去があります。ダビデ、ソロモンは力のある王国を建てたのに、いまは 国が分かれ、北イスラエルはアッシリア、そして、南のユダもバビロニアに攻略されてしまったという、情けない状態でいたのです。

ヘブル人達は、奴隷として引かれていったのですが、彼らのもっていた才脳はとても秀(ひいで)ており、アッシリアでもバビロニアでも、有能な奴隷として、高い地位でも用いられた人もいました。ダニエル達はバビロニアで宮廷に仕える奴隷でしたね、エズラは学者、そしてネヘミアは王の献酌官です。献酌官とは王様のお酒をつぐ役割ですから、相当の信頼がなくては得られる職ではありません。また、高い地位にいるので、僕とはいえ、その生活レベルは王の献酌官にふさわしいものだったにちがいありません。

そのままでいても、ネヘミアには悪くない状況だったのです。
しかし、神様の使命をうけたイスラエルの民としての自覚はうしなっては居ませんでした。主なる神の約束、父祖アブラハムとの契約は、どんなことがあっても廃(すた)れてはならず、神様の人類救済という広大な計画は、かならず遂行されなくてはならないことをネヘミアは知っていたのでしょう。

自分の心地良い生活よりも、神の王国イスラエルが、神殿はなんとか再建したのに(第一次帰環、
第二次帰還で神殿の再建はなんとか、はたした。)しかし、妨害が入って、イスラエル王国の再建が中断して50年が経とうとしている、しかも城壁は崩壊したままだ、という話を耳にして、ネヘミアは立ち上がったのでした!

50年近く手がつけられていなかった城壁を、建て直さなくては!」

このビジョンをうけたネヘミアは、どう行動しているでしょう? 
神様の計画が途中で止まってしまっていることを、心の底から痛み、悲しんだ彼は、喪に服し、断食して、神様の前に執り成しの祈りをします。 

56節「ああ、天の神、主(YHWH)。 大いなる、恐るべき神。主を愛し、主の命令を守るものに対しては、契約を守り、慈しみを賜る方。どうぞ、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて居この僕の祈りをきいてください。 わたしは今あなたの僕イスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエル人の罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。」 

ネヘミアは泣いたのです。余りにも情けなくて、残念で、数日間は喪に服したように心が沈み、食べ物も取らずに、人生の最大の苦難として、神の前にでています。国の惨状を覚えて涙をし、喪に服し、断食して、神の前に祈りにでる。 人生の危機に面したとき、かってない様子で神様の前にでますね。臨在の前に、自分の無力さと、情けなさと、問題の大きさに押しつぶされそうになりながら、神様の前に、倒れ込むようにでる、そんな体験がありますか? ネヘミアは、自分の国の城壁の再建が50年も滞っていると聞いた時、我が身に起きたこととして、涙をながし、もに服し、断食をして、神の前にでたのです! こんなリーダーが今の時代、わたしたちの国に、アジアに与えられたら、どんなにすばらしいでしょう! そんな霊的リーダーが起こされたなら、その国は立ちゆきます。 トランスフォメーションという記録映画をみたことがあります。ウガンダの国が麻薬、民族抗争、犯罪、カルト、混乱の中にいたとき、クリスチャンリーダー達が、一致して、断食の祈りをもって執り成しはじめたとき、教会が変わり、社会が変わり、国家が変わったという例です。

ネヘミアはビジョンを受け取りました。人々はもうあきらめて、手がつけられないでいる崩れた城壁ですが、これを建てなおして、イスラエル王国を建て直して、神様の人類救済の計画が前進するように!というビジョンです。奴隷にとって本国に帰ることがどれだけむずかしいか、出エジプトの時のファラオが10回も約束を翻(ひるがえ)したことからもうかがえます。 どの国の王様が、便利な奴隷を解放して、自分の国の再建をすることを喜ぶでしょう。ですから、ネヘミアは、自分の地位や権威でなく、ただ神様だけがこの事を実現させてくださる方だとわかっていたでしょう。涙を、苦しみを、そして、ビジョンをまず、神様の前に差し出したのでした。それは、真実な神様への嘆願であり、信仰告白でもありました。「あなたがモーセになさった約束を思いだしてください。『もし不信の罪をおかすなら、諸国民の間に散らす。しかし私に立ち返り、わたしの命令を守り行うなら、たとい天の果てまで散らされたとしても、彼らを集め、わたしが選んだ場所に、連れ帰る。』」 ネヘミアはこの大変なビジョンを、献酌官という心地良い地位と生活をなげうって、神様からうけとり、たちあがったのでした。

私たちに神様がねがっておられるビジョンはなんでしょう。もう無理だと、あきらめてしまってはいませんか。余りにもことが大きすぎる、自分の力では、自分の立場では、とても無理、とおもってはいませんか? 神様がくださったビジョンなら、おそすぎることはありません。大きすぎる事もありません。それをどう実現していくのか、神様の知恵と助けがあったら、実現は可能なのです。真剣に主の前にもういちど、祈りをもって、神様のビジョンを自分の物としてうけとって、天のはてまで散らされた主の民があつめられて、回復が可能だという、神様の御力を信頼して、たちあがろうではありませんか。 

日本は宣教師の墓場と言われています。リバイバルは不可能な国と。福音の苗が植えられても、その根をくさらせるような土壌が日本だと、いった作家がいました。神様の前には、不可能はありません! 主のビジョンを握って立ち上がる人が必要なのです!



0 件のコメント:

コメントを投稿

 
Design by Free WordPress Themes | Bloggerized by Lasantha - Premium Blogger Themes | Hot Sonakshi Sinha, Car Price in India