2013年9月7日土曜日

「敵の妨害」

ネヘミヤ記2:9−20

神戸短期宣教のために、みなさんのお祈り、励まし、ご支援を心から感謝します。参加なさったお一人一人が、それぞれにすばらしいお証しをもっておられるとおもいます。ぜひ、お声をかけて、神様の御業の感動を、分かちあってください。 

今回の短期宣教のために、どれだけの準備がなされたでしょう。韓国側も、迎える日本側も、沢山の準備をし、時間、労力、自分の夏休み、経済、家庭、様々な犠牲を払って、可能な事でしたが、この経験を通して得られた貴重な体験は、すべての犠牲に勝るものでした。 未信者の方の目に浮かんだ涙、感動した顔、クリスチャン達の充実した顔、これから、蒔かれた福音のタネがどのように芽をだし、実をむすんでいくか、お邪魔した姉妹教会をおぼえて、祈り続けたいと思います。 週報に姉妹教会の祈りの課題をのせつづけますので、一緒に祈りをもって、日本宣教を続けていきましょう! すばらしい働きをしてきてくださったチームと、御業をしてくださった神様に拍手!

暗唱聖句 また、みことばを実行するものとなりなさい。」

ネヘミア記
当時のイスラエルは、遠くペルシャの地で、捕囚の民(奴隷)として仕えておりました。奴隷に甘んじる人もいたと思いますが、“神様の民”という誇りを忘れない人達もおりました。「いつの日か約束の地にもどって、イスラエル王国を再建するんだ!」と祈っていたことでしょう。ネヘミアはその一人です。

彼は、ペルシャ帝国の王の献酌官という、高い地位の奴隷でしたから、生活は何ひとつ不自由のない状態であったことでしょう。しかし、神様のイスラエルへの約束を思うとき、“異邦人の奴隷”で満足していることはできません。振り返れば、イスラエルの歴史に、モーセの下、神の民イスラエルがエジプト出た体験があり、ヨシュアの下でカナンを征服した歴史があるのです。ネヘミアは、おなじ神様の民として、ペルシャの奴隷の状態にあって、神様の約束が成就しないで終わってしまう事に満足してはいられなかったのです。

せっかくゾロバベル・ヨシュアの第一陣が神殿を再建したのに、城壁は崩されたままで、50年近くほっておかれているとは、恥にまた恥をうわぬった状態で、周辺の異邦の民の笑いものでした。ネヘミアは、これをなんとも情けなく、悲しく、このままではほっておけない状態だったのです。城壁をなんとかして建て直さなくては! ネヘミアは自分の安定した生活をなげうって、城壁の再建というビジョンを掲げて、一歩前にでたのです。

ネヘミアはまず、天の神にいのってから、ペルシャ帝国の大王アルタシャスタ王に願いを申し上げました。「ユダの地、先祖の墓のある地を再建させてください。」 捕囚された民が、自分の国の再建を願う事などは、反乱罪に匹敵する大罪です。通常では、こんな考えは、持っただけでも逮捕される事でしょう。しかし、天の神様が開かれる門ならば、だれも閉じることができません。 ペルシャ大帝国の王であっても、その上に君臨なさる神様の主権のもとには、なんの抵抗もできないのです。王も王妃も、ネヘミアの願いを快く受け入れて、ネヘミアは自分のふるさとにむかうことが赦されたのでした。

ネヘミアはアルタシャスタ王に、ただ二つの事を願っています。自分がユダに着くまで、道が閉ざされることがないように通行許可証をもらうこと、 城壁の門につかう材木を調達する許可証です。 最低限必要なことだけを願いました。すると、王はそれを快く引き受けるだけでなく、特別な計らいをして、護衛のための将校達と騎兵もつけてくれたのでした。

ネヘミアはどんなにか神様に感謝したことでしょう。自分が願った事だけでなく、それ以上の事が展開したのです。 神様のみこころにそって、 ことを行おうとすると、自分が思った以上の事がおこります。主の憐れみ深さを感じます。そして、とうとうネヘミアは、目指すエルサレムに到着しました。

11節には、ここに3日間とどまった、とあります。なにをしたのでしょう? 余りの惨状に言葉もだせず、手もだせかなかったのかも知れません

惨状を自分の目でみたときのショックが大きいと言葉になりません。2年半前に東北大地震があったとき、災害の後一ヶ月以内でしたが、福島と仙台にいきました。ニュースでなんども見ましたが、実際、その場所にたってみると、画面をとおしてみたのとは全く違うものでした。 見渡す限り命がないのです。秩序も。縦と横の線があって安定したたてもの、乗り物があるのに、すべてが破壊され、形がまとものものがないのです。 そこに立ったとき、津波のひどさを予想することができました。悲惨な、状況で、4人ででかけましたが、そのあと誰一人話をすることができませんでした。車で2時間、3時間とはしっても同じ景色がつづきました。

ネヘミアの心も、この時の私達のようではなかったかとおもいます。言葉をなくしてしまうほどの惨状がエルサレムの状況ではなかったかと。

こんなエルサレムに3日間とどまりながら、ネヘミアは神様との深い交わりの時間をもったとおもいます。12節をみると、彼がある晩夜中に起きた、とあります。神様がネヘミアの心を動かして、エルサレムのためにさせようとする事を示されました。ネヘミアが自分で考え出したというよりも、神様のみこころに叶う使命があたえられたのでしょう。神様の御声をきいたら、それを吹聴せず、じっと自分の心にしまっておきました。神様に示されたことを確認するためでしょうか、ネヘミアはその晩の内に、そっと家をぬけだして、神様の使命をどうはたすことができるのかを、見に現場にむかったのです。 

偵察がおわって、復興の活動計画を大まかに立てて、ネヘミアはこの大事業にとりかかりました。代表者達を集めて、激励します。現状は見たとおり。しかし、城壁を建て直そう! そして、神様がどうたすけて、ネヘミアがエルサレムまで来れるようにしてくださったかを、王の心がどう動かされたかを、みなに証しをしています。そうして、みなに、「さあ、再建にとりかかろう!」と、激励して働きをはじめたのでした。ネヘミアが神様からうけた希望、ビジョン、動機をうけて、目の前の惨状にめげない信仰をいただいたのでした。

では、なんでもがスムーズにいくかというと、そうではないのです。 ホロン人サヌバラテとアモン人トビャ、アラブ人ゲシェムが嘲りとさげすみをもって妨害しはじめました。彼らは、「王に反逆している!」 と、一番危険なことをもって、告発してきました。おどしてきたのです。ペルシャの王の地位をおびやかすことを企てているのか! と。おそろしい告発でした。しかし、ネヘミアは自分の考えですすめているのではなく、神様の導きに従って事をしようとしているのです。 神様にいのって、みこころに叶ったことをすすめるとき、必ず妨害がはいります。

しかし、ビジョンを受けたとき、神様に祈って認められ、そのご、神様からの啓示によって使命感をうけたものであったなら、おどしに揺るがされることはありません。敵はかならず妨害してきますが、こちら側が屈服することはありません。それは、ネヘミアに良い戦略があるのでも、強い軍備があるからでもないのですが、かれには、神様とその約束がありました。 神様の導きをあるいているのなら、必ず事はすすみます! 誰が、何人で妨害してきても、揺るがされることはないのです。

実現しないまま、宙ぶらりんになってしまっているビジョンはありますか? まず神様の前にありのままで差し出して、そして、それをどう解決するか、神様の語りをきいてみて、
ください! ネヘミアのように大胆に、「わたしは再建にとりかかる!」と宣言して、前進をしましょう!大胆な信仰をもってすすみましょう!


  

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