2013年9月7日土曜日

「栄光の富で満たされる神」

ピリピ人への手紙4:10−20

共に主を礼拝出来て感謝です。お祈り頂いた、先々週の日本への宣教の報告を少しさせていただきます。(PPT) まずは大阪での「世界宣教セミナー」。「日本の教会が世界宣教のためにすべきこと」というテーマでの大会とセミナーでしたが、多くの方が世界宣教への献身を表明してくださいました。それから東京へ移動して、神学校からの短期宣教チームに合流して、高尾教会での数日間の奉仕をしました。小さな私たちを神様が用いてくださって、教会員が「聖霊が注がれました!」と何人もが証言する程の熱い祈りの時をもちました。南ジンスー宣教師と奥様も、すばらしい奉仕をしておられます。日本の教会で韓国人宣教師がどう仕えるかのモデルケースとも言える奉仕をしておられます。おかげで高尾教会はますます熱い霊性となっています。去年の私たちの迎える宣教で、高尾の皆様をお迎えしましたが、その実でもあると思います。 最後は千葉にあるハウスチャーチでの洗礼式でした。1月に福音をお伝えして、その時、スポンジが水を吸うように、受け取って下さった姉妹が、その後信仰告白をして、今回の洗礼式となりました。今回二度目におめにかかったのですが、首に飛びついてきて、「先生この日をずっとまっていました!」と。証しも、洗礼の瞬間も、涙、涙のすばらしい式でした。未信者のお友達も参加してくれましたが、この方まで、式の間中涙をずっと流されて、わたしの家でもこんな集まりをもってほしい、とおっしゃって下さいました。10日間、大阪、東京、千葉と主の御業の連続でした。 お祈りを心から感謝します!


パウロのピリピの教会への書簡もいよいよ大詰めとなりました。パウロがローマに着いてから投獄されたことで、このような書簡が残されたことを神様に感謝します。 パウロは異邦人への使徒として召された人です。それで、一所に落ち着くことなく、次の都市へと移動しながら、イエスキリストの福音を伝えていたので、落ち着いた職業を持つことはできませんでした。(どうしても必要があった時には、天幕造りをして生活をささえた事は有名ですが。)それで、ピリピの教会のように、彼の使命を理解して、支える聖徒達の犠牲と献身がとても重要だったとおもいます。

415節を読むと、マケドニア地方を出てすぐの宣教初期は、ピリピの教会だけがパウロを支えていたそうです。それを思いだして感謝しています。テサロニケ滞在中は2度に渡って支援を送ってくれたので、乏しさが補われた事も忘れることができない、と。しかしその後どうやらピリピの教会からのパウロへの支援は途絶えたようです。そして、この時、パウロがローマの獄中から手紙を送ったときに、もう一度ピリピの教会がエパフロデトを通して支援を届けてくれるようになったことを、パウロはここで喜んでいます。

10節「私の事を心配してくれるあなたがたの心が、この度ついによみがえってきた事を、私は非常に喜びました。

パウロはピリピの支援が再開したことを“非常に喜ぶ”と書いています。パウロは何を喜んだのでしょう? 自分の生活が楽になる事でしょうか? いいえ、パウロの喜びとは、自分への支援がくるという喜びではありませんでした。では、なにを非常によろこんだのでしょう?

111213「乏しいからこう言うのではありません。私はどんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は貧しさの中に居る道もしっており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも、飢えることにも、富むことも、乏しいことも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は私を強くしてくださるかたによって、どんなことでもできるのです。」

パウロが非常に喜んでいるのは、支援が再開された事ではないと言います。貧しい生活はもう慣れていて、当たり前。乏しい生活になったら、天幕造りでもして働けばよい、とでもいっているかのようです。天幕造りがどんなに厳しい仕事か、以前にお話ししましたね。動物の皮を扱うので、薬品や熱で処理するし、臭いや熱さもきびしい、それは大変な労働です。それでも、生活ができなくなったら、天幕をつくればいい、と考えていたのでしょう。ですから、乏しい生活であっても自分はいきられる。だから、物を期待しているのではありませんよ。と、パウロは明言します。

パウロは、聖徒達が福音宣教のために犠牲を払って献げることで、彼らが得られる霊的恵みを、ピリピの聖徒に体験してほしい、 と考えていました。犠牲を払った分にまさって、聖徒達が受け取る 神様からの霊的祝福、これをピリピの聖徒達が、又、味わう事ができるようになったから、わたしは非常に嬉しい、と!  パウロの喜びは、ピリピの聖徒に再び注がれる霊的な祝福だったのです。

考えてみると、パウロを宣教に召したイエスキリストは、地上生涯の間、質素な生活をなさいました。しかし、さまざまな折りに、あらゆる方法で必要を満たす事がおできになります。水を葡萄酒に変え、どこに網をなげたら大漁かもご存じで、2匹の魚があったらそれを5000人分以上に増やす事も可能でした。現金が必要な時には、魚の口にスタテル銅貨を準備することもなさいました。 イエスキリストは、全世界の創り主として、全ての自然を所有しておられ、それをどのようにも、御使いになることが出来る方なのです! ですから、イエスキリストは、パウロの宣教の必要を、実は、全部満たす事がおできになるのです。パウロだけでなく、全世界の宣教師達の必要の全てを、不思議な方法で満たす事がおできになるのです! 

しかし、神様は宣教の業について、奇蹟ではなく、教会と聖徒達を用いて、福音が全世界に届くように、と決められました。それは、神様が自分でできることを出し惜しみするのでもなく、もちろん、なまけているのでもありません。神様は宣教の業に加わることが、聖徒にとってどれほど大きな恵みなのかを、ピリピや他の教会、また、その中の一人一人の聖徒達に味あわせようとされたのです! それは、天の御国の前味です。この地上の人々が、自分を利益を求め、自分が豊かになる事に全てを懸ける中で、自分は少しの不便をしても、イエスキリストの福音が世界に広がり、届くという尊い宣教の業に参与する喜び、充実感を、聖徒達が味わえるようにと、この犠牲の機会を、分かちあってくださったのです。 

パウロは、このように宣教支援を捕らえていたので、ピリピの聖徒達に、もう一度宣教に献げる思いが戻って来た事を、非常に喜んでいる、といっているのです! もう物にこだわらないパウロ、豊かさも、貧しさもその対処の仕方を心得ているパウロには、物をもらえるかどうかは問題ではありませんでした。ピリピの教会の聖徒達が、この宣教の大切さ、また、その働きに神様が召して下さったその恵みの深さを、十分に理解しているかどうか、これがパウロの一番の関心だったのです。 

パウロは18節で、「ピリピの聖徒の献げた物は、香ばしい香りであって、神がよろこんでうけてくださる備えものです。」と定義しています宣教師達に献げた物は、宣教師たちへの贈り物ではなく、神様がよろこんで受け取ってくれさる神様へのささげものだと!今日皆様がささげてくださった宣教献金は神様が喜んでうけとってくださった捧げ物なのです。

最後に一枚PPTをごらんください。今回お目にかかったMさんです。神学生のチーム7人全員を家にむかえてくださいました。Mさんは、10年前にご主人が心臓の病で寝たきりになりました。そして、3年前に息子さんがパーキンソン病にかかり、仕事もできなくなって入院の状態になりました。入院の間になんと、お嫁さんが癌にかかり、天にめされてしまったのです。息子さんの容態はだんだん悪化して、お嫁さんが亡くなられた事は伝えられない状態でした。そして、今年はじめ、ご主人が長い闘病の末、召されました。なんと2年の間に、お嫁さん、息子さん、ご主人を亡くされたヨブのような姉妹です。この方こそ、悲しみのどん底で、教会の奉仕から一切はなれて、しばらく心の休養を、と言っても当然なのですが、なんと、私たちのチームを、「教会の集会室で寝るのは不便でしょう」、といって7人全部を引き受けて泊めてくださったのです。この姉妹は、今まで何人の宣教師達を支えて来たことでしょう。わたしも支援を受けた一人でした。この姉妹の助け成しには、神学校を卒業することはできませんでした。今でも何人の宣教師や孤児達(木甫の共生院)を支えているのかしりません。姉妹のお家はとても質素で、使っている物が古いのに驚かされます。家具や扇風機やドライヤーなど、十何年も前の物を大切に使っておられて、新しい物を買われてもいいのに、と思うほどです。それなのに 、沢山の宣教師達を支えておられるのです。この方は、神様の霊的な恵みをよく知っておられるからこそ、このようにできるのだ、と思いました。
 
さて、この夏、ハレルヤ教会は宣教の季節です。スピリットパワー、日語部も来週は神戸宣教です。 神様に語られた方は、来週でも遅くありません。私たちもパウロの語る、捧げ物をとおして受ける、犠牲に余り有る霊的な祝福を、ぜひ体験しようではありませんか。


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