2014年1月20日月曜日

「礼拝を第一に」

ネヘミヤ記 10:32-39

趙先生、歓迎します。寒い数日がつづいています。 こんなに寒いと韓国に住んでいてよかったなあ、と思います。オンドルの部屋がありますから。外はマイナス10度でも中は20度くらいで、仕事ははかどります。そして、スンドゥブちげを食べたら、体があったまります! 
                 
さて、一週間の早天祈祷がおわりました。朝450分からの礼拝でした。参加された方は、とても恵まれたれ、と報告してくださいました。私は今回は教会では参加ができませんでしたが、毎朝、同じ時間に家で礼拝を献げました。イエス様もまだ朝くらいうちに祈られた、とあります。真っ暗な静けさの中で、沢山語りかけをうけました。皆さんものこの10日間はいかがでしたか? 今日の各部会では、新年この一週間の霊的な恵みや、主からの語りかけ(新年の信仰生活の抱負)を分かち合ってください。

暗唱聖句 「キリストの満ち満ちた身丈にまで達するためなのです。」エペソ413
昨日リーダーの訓練会をもちましたが、教会がキリストの満ち満ちた身丈になるのには、一人一人が霊的に成長すること、そして、共同体全体が一致すること、とわかりました。
この二つを心に、今月、また、今年一年めざしていきましょう。

みことば
ネヘミアの再建したのは城壁だけでなく、その中に住む民とその共同体でした。いままで、神様は、イスラエルのために、超自然の助けを送り、民を養い、守り導きました。それなのに、すこし不便な状況が起きると、「 水をよこせ」、「肉をよこせ」、「エジプトにいた方がましだ!」だの、自分勝手な事をいいました。ついには、金の仔牛を作って、「これが私達をエジプトから導いた神!」とまで言うようになったのです。 

そのような反逆は、カナンの攻略を終えて、イスラエルが王国を建ててからも同じでした。ダビデ・ソロモンの時代の繁栄を味わっても、民は神様を無視した生きかた、もしくは、形だけの信仰生活に陥ったのです。それで、またしても、神様はイスラエルを分裂させ、さらに異邦人の国が両方を攻略して、民を捕囚 するという、辛い試練を与えました。

そんな失敗だらけのイスラエルの過去を、ネヘミア達はふりかえり、自分の弱さを認識します。「もう2度と同じ失敗はしてはならない! こんどこそ、神の民としてしっかりと生きて行く!」と、 民は、誓いをかわします。その誓いとは、
主の命令を守ってすすむという誓いをするなら恵みがあり、命令を無視してすすむなら、のろいがある」というものでした。

それで、こんどこそ!真剣に神のことばに従って生きようと、帰還した民は最大限の努力をします。
1.     異邦人との雑婚はゆるさない。
2.     安息日を聖とする、この日には物を買ったりしない。
3.     7年目には土地を休ませ、すべての負債を取り立てない。
どれも、実際に行うのは簡単なことではありません。しかし、神様の憐れみによって、異国の地での捕囚から、再度、約束の地に帰還した民にとって、神のみことばに従うかどうかは、この国が再建できるかどうかのと関わっているのです。ですから、民の信仰・従順が、このむずかしい事でためされたのです。

つづいて、更正したのは「民の礼拝」でした。礼拝のクライマックスは「捧げ物」です。当時の神殿礼拝は、動物の犠牲と、植物のささげものの2種類がありました。動物は、野生の物ではなく、家畜のなかから聖い動物が、礼拝者 の状況に応じて献げられました。礼拝者達は動物や植物 を携えて神殿に参拝にきたのです。動物をつれてくるのは、大変なこと。礼拝者たちはその動物の上に手をおいて、それを会見の天幕の前で屠(ほふ)って、祭司に手渡します。祭司はそれを受け取って聖所にある祭壇で焼いて神様にささげます。全焼のいけには、まったく神様へ、和解のいけにえや、よろこんで献げるいけにえは、一部が祭司にわたされ、一部は礼拝者の家族や友人が食べる。という基本的な礼拝の型ですから、献げ物は神様への感謝、悔い改め、赦し、恵み、献身をあらわす、重要な礼拝の中心でありました。

ですから、言い換えると、誤解を恐れずに話すと、私たちの信仰は捧げ物に表れるということです。自分の収穫を神様の前にどうささげるか、これはカインとアベルの時から、神様がその種類ではなく、分量でもなく、「礼拝者の心」を重要視していることでもわかります。 金額をうんぬんしているのではありません。多く献げる人は信仰が強い、といっているのではありません。 多くのささげものをしている人でも、自分の名誉のために、自我のためにしていたら、それは神様へのささげ物をささげているのではなく、神様を利用して自分のために献げているからです。

神殿にレプタ銅貨2200300円)枚を投げ入れた貧しい未亡人のことを、イエス様は「この女はだれよりも多く献げた」と言ってくださっているでしょう。金額が問題ではないことがわかります。この未亡人がほめられたのは、自分のできる限りの全てを、神様を愛するがゆえに、献げているからとイエス様が説明しています。信仰者の献げ物のあるべき姿とは、自分が今日ささげられる最高のささげものを、心をこめておささげるのが、礼拝としての献げものです。

ネヘミアと帰還したイスラエルのリーダー達は、
神殿の礼拝の回復がなによりも重大だとも知っていたので、まず、神殿での礼拝のために献げ物しようときめました。その額は3分の1シェケルとあります。36グラムの金とか銀(金の値段で考えると約100ドル?) 神の選びの民として、もう一度みことば通りに生きようと決意したネヘミアと 民のリーダー達は、毎年3分の1シェケルをささげて、神殿での礼拝の必要な物が足りないことがないようにという決意をしました。そして、祭司とレビ人達も、礼拝者達がささげた犠牲を焼くための薪(たきぎ)を献げることを決めました。動物の献げ物だけでなく、地の産物についても、土地の初なりのものを毎年宮に持ってくることを決定しました。それだけでなく、人や動物の初子を神の宮に(もちろん犠牲のためではありません!)そして、果物や麦粉葡萄酒と油を祭司達のところに持ってきたのです。また、それぞれの住居地にいたレビ人(礼拝の担当者、生活をなりたたせる仕事は持てない。)に土地と収穫の十分の一をささげたのです。レビ人は受け取ったものの十分の一を、祭司にささげました。もしその土地に祭司がいなかったら、レビ人はその祭司の分を神殿にお返ししたのです。

この中に何をよみますか? 神様の礼拝を真剣にうけとりはじめたイスラエルの姿勢です。
聖書の中に
「主の前には何も持たずに出てはならない。」申16:16
アブラハムの信仰は、ささげもので試された。
「地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものであそれは主の聖なる物である。」レビ27:30
これを守らない者は神のものを盗んでいる。マラキ3:8   ともあります。
 
献げ物は、参加費でもなく、お賽銭でもありません。礼拝の中心・神髄なのです。
生活費にひつような物を全部とって、余った中から神様にささげるのでは、礼拝の本質からはずれてしまいます

私は、月のはじめに10・1献金、支援献金、宣教献金は取り分けて袋にいれている。一年のはじめに12ヶ月分の献金袋を準備しています。(忘れないため、第一にささげるため)。

では、時間は?おかねだけでなく、時間も。一日の中でやりたいことを全部して、あまった時間でQTや礼拝をしていないか。 友人との交わりが先で、あまった時間で教会奉仕。

ネヘミアの訴えは、礼拝をしっかりと回復しましょう、ということでした。
2014年、神様への愛をもう一ど回復し、心をつくして、思いをつくして、力をつくして神様を愛する礼拝者、日本語礼拝でありたいと願います。

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