2014年3月15日土曜日

「つまづきの石」

黙示録 2:12-17

2014年のレントがはじまりました。レントとは復活祭の前の40日間で、灰の水曜日から始まります。言葉の語源は古いドイツ語で「断食」という意味で、キリストの十字架の死と復活をおぼえて、断食をして心の準備をしたのです。古くは日の高いうちは断食をし、日が沈んだら食事をするという、イスラム教のラマダンのような風習だったということです。レントのこの時期、プロテスタントの人も「コーヒー断食」「TV断食」「ネット断食」「ゲーム断食」など、自分の心をしめているものを神様に捧げて、その分を神様のために用いるという方もいますね 。何であれ、十字架と復活の意味を深く考えながらレントの時期をすごしたいと思います。

暗唱聖句「主に喜ばれることはなんであるかを見分けなさい。」エペソ書510節 

皆さんは何かつまずいたことはありますか? 段差につまずいたり、木の根につまずいたり、年をとってきたらより低い物、小さいものにも躓くようになりました。絨毯(じゅうたん)や、化粧品のふたとか、そんな小さなものでも躓いてしまいます。それでまた、転んだら大変! (これは体重のせいですが。)転んだときに自分を支えられないし、起き上がれないし。普段からつまづかない筋肉トレーニングが必要だと思います。

信仰生活にも躓きということがおこります。人生のきびしい現実にぶつかって、信仰的に倒れるような体験をすると、おきあがる事ができなかったりします。どうしてこんなひどいことが起きたのか!再び立ち上がる気力も出ないような状態になったことがあるでしょうか?  

ペルガモの教会はそんな問題を抱えていたようです。
エペソやスミルナが海港都市として、商業都市であったのにくらべ、ペルガモは内陸の町としてむしろ文化や宗教が盛んな町だったようです。ここの図書館の跡は、蔵書が20万冊をこえていたと思われる規模です。医学が発達しており、病院跡も遺跡の中にはみられます。

この教会へのメッセージの中で、人の子は「あなたの住んでいる所を知っている。サタンの王座のある」と、言っています。実際この町には、ゼウス神・アテナ神の神殿の他にも、病の癒やしで有名になった、アスクレピオスの神殿があり、ここは癒やしを求めて人々がつねに参拝していた場所でした。加えてローマ皇帝のアウグストス、トラヤヌス、カラカラなどの力のある皇帝の神殿もあり、皇帝礼拝の盛んだった町でした。丁度このころがパックスロマーナというローマの権力が最盛期ですから、皇帝礼拝を拒む者は命を覚悟するような時代だったのでしょう。

そのような中でキリスト教徒であることは、相当の覚悟が必要だったことと思います。事実、このペルガモにあった教会のメンバーの一人、アンティパスはイエスキリストの証しを忠実に行ったが故に処刑された、と記録されています。ギリシャ語で「証人」ということばは「殉教」を意味しますから、クリスチャンだと証しをすることは、命がけのことだったと分かります。ペルガモの仲間の一人が処刑されたとら、教会全体にどれほどの衝撃が走るでしょう。会員がおそれからだんだん去って行って教会が閉鎖されるということもあり得ます。しかし、ペルガモの教会の聖徒たちは、そんなことで揺るがされる信仰ではなかったのです。彼らは逆に殉教の中で信仰を持ち続ける決意をかためた聖徒達だったのです。
そんなたくましい信仰の姿を、人の子は誉めています。

13節「わたしはあなたの住んでいるところを知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅くたもって、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。」

イエスキリストから誉められるとは、なんと幸いなこと、またどんなにか大きな励ましでしょう。「よく私を否まずにいてくれた!」といわれているのですから。ペルガモのクリスチャンの信仰のたくましさ、勇ましさが伝わってくるようです。「どんな事があってもクリスチャンであることは止めない!」「たとえ捕まっても、どうして偶像の神々や、皇帝礼拝ができるだろう!私達は生ける真の神を信じる者なのだ!」「そのとおり!アーメン!」こんな言葉が交わされるような教会だったのでしょう。

しかし! このたくましい教会に、人の子は少しばかり非難する事がある。これは小さな間違いという意味ではないでしょう。一つ二つ、見逃すことができない重大な非難すべきことがある。というのです。 ペルガモの教会に「バラムの教え」、「ニコライ派の教え」が入り込んできている、と。

バラムの教えとはなんでしょう?
民数記の2224章を読むと、モアブの王バラクがイスラエルを恐れて、占い師のバラムを呼び出してイスラエルを呪わせようとした事が記録されています。しかしバラクの依頼でバラムがイスラエルを呪おうとするのに、祝福の言葉しかでてこなかったのでしたね。ロバがバラムに人間のことばで話かけた記事はおぼえているでしょう? この時はバラクの目論みは失敗したのですが、しかしバラクとバラムは違う方法でイスラエルに攻撃を加えたようです。25章の最初には、イスラエルの男たちが、モアブの女達とみだらな事をし始めた、とあります。なんとバラクとバラムは軍事的な攻撃ができないとわかったときに、イスラエルの弱さ(人間全部の弱さ?)である性的な問題でイスラエルの中側を弱体化させる方法に出たのです。民数記3116節にモーセの嘆きの言葉が書かれています。「ああ、この女達はバラムの事件に関連してイスラエルをそそのかして、主に対する不実を行わせた。それで神罰が主の会衆の上に下ったのだ」 性的な問題は人間の根本的欲求に関わるもので、クリスチャン(牧師もふくめて)を攻撃するサタンの最大の道具の一つです。サタンの道具とは 富、権力、性です。

神学校で勉強していたときに、100人のクラスだったのですが、教授が世界の統計では、牧師になった者の一割が性の問題で牧師職を去っている、という話をしました。そんなばかな!神学校で学んで、教会で奉仕して、どうしてそんなことになるか、と。周りをみると、だれを見ても、信仰に燃えていて、神学もしっかりと理解していて、すばらしい献身者たちばかりで、どう考えてもこの人たちがそんな過ちを犯すとは考えられませんでした。しかし、統計は10%なのでこのうちの10人はそんな可能性があるのか! そして、その授業の直後でしたが、この神学校で教えていた教授の一人の不貞が発見されて、全校への連絡がなされ、この先生は罰せられました。大きなショックでした。授業をしている時には普通に教えており、やさしくて有名な先生だったのです。  プライベートな時間が不透明であることは危険です。ビリーグラハムがどのようにしてここまで大きく神様に用いられたか、その秘訣は奥さんをつねに側に置いたことだ、といっています。この教授のの若かりしころからの努力、積み上げ、キャリヤ、世界で著名な神学校の教授という立場をとおして、神様の召命を達成するというやりがいのある人生は、このつまづきのゆえに、台無しになりました。
モアブの風習では、(他の異教の多くがそうですが)神殿娼婦とかの風習があり、宗教行為の一貫としてけがれた行いがなされていたのです。
バラムの教えとは、そのように女たちをとおして、神様の清い教えからずれだして、自分の欲望を満足させる、そんなことだったのでしょう。

ニコライ派の教えについては、エペソの教会の時に学びましたが、祭司と信徒とのはっきりと区別をつけた階級を重んじる事にからむ問題だったようです。日本の教会のいくつかにこの問題がおこっています。牧師となった人が神様の権威を利用して「家も畑もすてなさい。」と教えて信徒から法外な献金を募ったり、人生のあらゆる面をコントロールしたり、時には暴力的になること、女性信徒にはセクハラ、などが報道され、教会のイメージをさらに低くする原因の一つとなっています。イエスキリストの処女降誕、十字架、復活は間違いなく教えるのに、教会のとらえ方が極端で、力をふりかざすことができる聖職者と信徒という図式です。こんな教会をバイブルカルトとよびます。
ある尊敬する牧師先生が、こう言う問題をさけるためには、クリスチャンは、(1)金持ちになりたいという思いは献身者は抹殺すべき、(2)教会はリーダーシップは複数合議性であるべき、(3)教会の経済は透明にし、(4)ブランド品とか、より高価な物をもって自分を大きく見せることをせず、シンプルな生活を保ち、(5)与えられた物をしっかりと管理して、豊かに献げること、をすすめています。見せかけの勝負は生活も信仰もだめです。

サタンのやり口は本当に巧妙です。信仰生活の見える部分は立派に見せさせ、些細なように思える事に攻撃を加えてきます。殉教さえいとわない信仰の表明ができても、「このくらいはいいだろう。」「みんなもやっていることだ。」「殺人や強盗のような悪いことではない。」いろんな理由をつけて、ちいさな躓きの石を足下においてくるのです。

しかし、罪は人を神から遠ざけることが目的です。いったんつまづくと、祈れなくなり、神様との交わりの喜びがもてなくなり、少しずつ距離がでてきて、形だけの信仰か、実際に信仰をはなれるか、それが罪の狙っていることです!

人の子はすすめます。「悔い改めなさい。」 「もしそうしないなら、すぐにあなたの所にいき、私の口の剣をもって戦おう。」 この口の剣は、両刃のするどい剣です。みことばの真理によってさばく! 「みんなもしている」、「この程度なら」、そんなことでは見逃されない神様のみことばの剣で裁かれるのです!

悔い改めは簡単ではありません。悔いることは簡単ですが、改めることには多くの困難が関わるでしょう。気持ちの覚悟も必要です。しかし、罪でなく神をえらんで、歩む時、白い石が人の子からもらえる、と約束があります。これは無罪の物には白い石があたえられたという風習から、悔いて、改めて、方向を神様にむけたなら、神様は何もなかったかのようにゆるしてくださるということです。 小さなつまづきの石がないか、吟味しつつ、助け合いつつ、本物の(外も中も)クリスチャンとして歩んでまいりましょう!



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