2014年3月8日土曜日

「始めの愛」

ヨハネの黙示録 2:1-7

フィギュアが終わりました。オリンピックレベルでは、本当んいただしい審判、誰が見ても納得する採点をすべきです。納得のいかない結果に、どの国の審判が何点だしたのか、とか文句が浮かびましたが、キムユナさんの落ち着いた、成熟した態度に本当に関心しました。誰が見ても彼女が一番の風格と出来栄えだったのに、銀と発表されても動じない姿、自分は120%を出し切った、ことをよしとするすばらしさ! また、10年のライバルと言われた浅田真央も、ショートプログラムでの大失敗から見事に回復して、自己最高点をだしたフリー演技。 二人の流した涙は本当に美しかったですね!メダル騒ぎのスポーツから、本来のスポーツのすばらしさをもって、二人は世界中を感動させてくれました。 ニュースを見て、二人に心からの拍手をおくりました。 

さて、昨晩、今年はじめての日本語礼拝特別祈り会が持たれました。内乱や闘争に苦しんでいる国々のための祈りに始まって、日本の国と教会のために、そして、日本語礼拝部の2014年度のために、お互いのために、また、みなさんのためにお祈りしました。祈りを通して、ますます神様にちかづいていき、お互いに近づいていけることを期待します。今回おいでになれなかった方は3月30日、一ヶ月後にそんなもくちゃ教会で韓国内の日本語礼拝が集まる祈り会があります。そちらに是非ご参加くださって、さまざまな危機に直面している日本のためにお祈りくださったら感謝です。

暗唱聖句「あなた方は、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」 Iペテロ1章9節 

御言葉から
今日から7回に渡って初代教会に宛てて書かれたイエスキリストのメッセージを学びます。
ヨハネの黙示録の中にありますが、この黙示録は、弟子のヨハネが年老いてから、御霊の示しをうけて記したものです。その啓示のなかに、当時小アジアにあった7つの教会へのメッセージがあります。初代教会とは、紀元64年のネロ皇帝によるクリスチャンの迫害に見られるように、厳しい迫害の中で建て上げられていきました。キリストと共に行動した12弟子達も、それぞれが命をもって信仰を証したことが古文書に記録に残っています。聖書にヤコブは剣で殺されたと記録がありますね、伝承によるとペテロは逆さ十字架で、マタイはエチオピアに宣教にでかけて刀で、 ナタナエルは体の皮がはがれるまでムチで打たれたと、アンデレもムチでうたれた後X型の十字架で見せしめにされたとあります。二日間苦しみの間も、自分にムチをあてる人に福音を語り続けたといわれています。トマスはインドまででかけ槍で刺されました。パウロは拷問にあったあと斬首刑となりました。みんなが殺されても否定できなかったのが、イエスキリストの福音でした! ネロの時代に多くの弟子達は命を落としたそうですが、生き延びたヨハネは老人になるまで生きられた唯一の使徒でした。そんな彼もエペソでは煮えたぎる油の中に投げ入れられたのに奇跡的に生き延びたという伝説があります。その後、パトモス島への島流しとなりました。この島は今でこそ観光地ですが、当時は石ころだけの身を寄せる建物もないひどい場所だったと言われています。この島流しの場所で神様がヨハネに啓示を見せてくれたのです。その内容が記録されたのが黙示録で、その始めの部分に、イエスキリスト、「人の子」から、小アジアの7つの教会へイエスキリストからのメッセージがあるのです。イエスキリストは、7つの教会にどんなメッセージをのこしたのでしょう。今回から7つの教会への主の言葉をともに心に受け止めていきたいと思います。

7つの教会の内、最初に人の子からメッセージを受け取ったのはエペソの教会でした。
エペソは小アジアの最大の港町として東西の文化の通路だったので、商業や文化も発展していた町です。 様々な人が集まる場所ですから、宗教も種類のものが持ち込まれたことでしょう。それらを受け入れながら文明を発達させた町でもあったのかも知れません。この町はアルテミス神殿を中心として、さまざまな異教の寺院があり、霊媒や魔術が盛んで、人々が悔い改めてパウロの元にもってきた魔術の本は、銀貨五万枚分だったと記録がありますね。不思議なことですが、文明が発達したとしても、人は霊的な事を追い求めます。 丁度、高層建築物がならぶ東京にも、路地に入ると占いの出店が並ぶような状態だったのかもしれません。ですから、パウロは普通なら数週間で教会を建てて、次の町に移動する宣教方針ですが、ここエペソでは2年以上も滞在し、その霊性のたて上げに力を入れなくてはならなかったようです。
そんなパウロの宣教はある程度実を結び、教会はパウロが誇りに思うような教会となったようです。エペソ人へ手紙の方を読むと、パウロの冒頭の挨拶に、「あなたがたの主イエスに対する信仰、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、感謝をささげている。」と誉めています。又、「愛に根ざし、愛に基礎をおいているあなたがたが、その広さ、ながさ、高さ、深さがどれほどであるかを理解できますように。人知をはるかに越えたキリストの愛をしることができますように。」という祈りも捧げています。ですから、エペソの教会は「愛」という点でパウロから誉め言葉をもらった教会でした。(AD60年辺り)今ヨハネはこの30年後にかいていると考えられるわけで、ここにエペソの教会の変化を感じます。30年前は、パウロから「愛の教会」として誉められ、周りに知られていたエペソの教会だったのが、今ヨハネに与えられた啓示の中では、あなたは「初めの愛」からはなれてしまった、という悲しい指摘がなされているのです。

この短いメッセージの中には、30年間エペソの教会はそれなりに成長したことへの、人の子からのほめことばもあります。
1.     続く迫害の中でもよく耐えてきたエペソのクリスチャンの忍耐と労苦
2.     偽使徒の偽りを見抜いた事、特に、ニコライ派の行いは憎んでいる。

この誉め言葉を見ると、ヨハネ時代までの30年間に、エペソの教会が成長した点は
w   労苦、迫害下のクリスチャンの生活はくるしかったでしょう。300年間いつもローマ支配下でコロシアムの見世物のようなひどい目というのではなかったかと。でも、クリスチャンの不当な告発を禁止する規則がつくられているほど、ひどい目にはあっていたでしょう。財産の没収、家屋の破壊、失業、特権の剥奪などはよくみられた迫害だったそうです。こんな苦しみの中でもクリスチャンであることをやめずに、教会を継続していたのでしょう。
w   教理の学びが徹底していたこと
-         他宗教の中(エペソのアルテミス、ギリシャ神話、ローマ神話、ミトラ教)迫害の中でも信じていくのには、それ相当の信仰の根拠が必要です。ですから、旧約聖書と使徒たちから聞いたイエスキリストの教えのひとつひとつを学んで、信仰の内容、教理を確認しながらすすんでいたのでしょう。日本人が、「先祖の供養はどうかんがえたらいいのでしょう? 」「神様とはどういう存在と考えたらいいのでしょう?」そんなむずかしい問題にぶつかったときに、聖書をしっかり勉強するのと同じではなかったかと。 

そのようにして、キリスト信仰の基礎が30年にわたって出来上がってきたので、エペソの教会は、ニコライ派というグループが入ってきたときにも、それを憎むことができたというのです。 このニコライ派はどんな派かまだ不明です。語源から判断すると、階級を区別して、教職者が信徒をコントロールをしたカルトの可能性があるそうです。
カルトの問題の一つは、神さまの権威を、教祖や組織のために利用して、信者の人生をコントロールすることです。考え、信仰だけでなく、持ち物、財産、人間関係、また、多くのカルトが結婚をコントロールして、人生全部を破壊していくそういうおそろしい結末が多いのです。それが間違った教えだと気がつくのは、教理や神学を学んでおり、見抜く力がないといけません。エペソの教会はそれができるほどに、教理に強い教会だったのです。
これが人の子から、エペソの教会へのほめことばでした。忍耐して労苦している、異端をみぬいた、
しかし、人の子はこのエペソの教会が、教会として一番大切な事を忘れてしまっていたことを指摘します。「あなたがたは初めの愛から離れてしまった。」 かつては愛にあふれた教会として有名だったのに、どこで愛がなくなる教会になってしまったのか。働きはがんばるけれど、それぞれがしっかりと役割を果たすけれど、愛がない教会とかわってしまったエペソの教会に、人の子はもう一度、教会の本質をおもいださせました。「初めの愛」にもどりなさい。
この愛は神様にむけての愛、と、兄弟姉妹にむけての愛の両方が考えられます。 神様への愛は、初恋のように熱い思いで礼拝することでしょう。恋愛の経験は多かれ少なかれあるでしょう。なにをみてもその人を思い出します。空の雲、同じ背丈の人、俳優よりももっとすてきに見えてくる。イエス様をそんな愛で愛したころを思い出します。イエスという音、Jesusという音だけでもうれしくなりました。名画のイエス様はもちろん、簡単にえがいた漫画のイエス様のみ姿ですら、うれしく愛(いと)おしくてならなくなりました。 イエス様のことをだれかに話したくて、聞いてもらいたくて、たまらないそんな恋愛のような思いでした。今はもっとおとなの愛になったのではないか、とおもっていたのですが、今日のみことばは、初めの愛にもどりなさい、ということなので、もどるように祈りたいとおもいます。
この愛ということばは、兄弟姉妹を愛する愛ともとれるそうです。犠牲の愛です。(顧みを期待しない愛)です、聖書の中に500回使われている言葉です。愛は寛容であり愛は親切です、また人をねたみません。愛は自慢せず高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益をもとめず、怒らず、人のした悪をおもわず、不正をよろこばずに真理を喜びます。
このような愛があふれる教会こそ、キリストがもとめている教会です。この終末の世界がもとめている教会なのです。


日本語礼拝部の噂、「あそこは人数が増えた」ではなくて、「あそこには愛がある。」と言われる礼拝共同体になりたいです。「ハレルヤ教会にいくと、神様への愛があふれています。」「あそこはみんながいつも励ましあっています。」「入った時から神様あったさを感じます。」日本語礼拝部も「あそこにいくと神様の臨在があります。」「日本語礼拝にいくと愛があります。神様を愛する人であふれています。」 「あそこは、困った人へ手をさしのべる共同体です」。「さみしい人へかたりかける共同体です」。「人の悪口が聞こえないんです。」 「失敗してもあたたかく許してくれる共同体です。」そんな名誉をもらえたら、最高ですね。そしたら、私たちに託してくださった燭台がはずされることはないでしょう!

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