2014年3月8日土曜日

「苦しみを恐れずに」

ヨハネの黙示録 2:8-11

挨拶
先ほどのお知らせにありましたが、ジョンへぎょんコンサニムが天に召されました。いつもお体の調子が良くなくても、時間にまにあわなくても、一緒懸命に 日本語礼拝に来て下さっていました。今は痛みから解放されて、主の御国で礼拝を守って居られると思います。私達クリスチャンは、死が死でおわらないことをよく知っています。死は通過点にすぎません。ご遺族のためにお祈りしましょう。

三一節の一日、通りや家々に掲げられた太極旗を見ると心が痛みます。どの民族もどの国家も自由と独立は保障されるべきだと、翻る旗を見ながら心の底から思いました。私の愛する二つの国が、近い将来に相互の理解、赦しと和解にたどりついて、すべての民族の自由と独立の大切さを世界に語ることができるようになることを祈らざるにはいられません。このような過去を抱えた日本を覚えて、日本宣教のために、皆さんがこうして日本語礼拝部にきてくださることの意味の大きさも深く感じます。皆様、日本を愛して下さって本当にありがとうございます。皆様の愛が、日本の堅い心を溶かしていけるとおもいます。つづけて日本のために祈ってくださること、日本宣教を担ってくださることをお願いします。

暗唱聖句 「(そのためには)主に喜ばれることは何であるかをみわけなさい。」
エペソ510
<みことばから>
初代教会の迫害
小アジアの7つの教会へヨハネを通して与えられたメッセージから学んでいます。すでにイエスキリストは60年位前に天に帰られていたのですが、教会は迫害の中で根を伸ばし、北アフリカ、ヨーロッパ、小アジアまた東方へと福音を広げていきました。なぜ、当時の教会が迫害されたかというと、ユダヤ教徒からは異端扱い、異邦人からは社会の安定を乱す者とか、一つの神を絶対視してこだわり、皇帝礼拝を拒むとして迫害されたようです。噂は悪意に満ちて拡がり、「人の肉を食べ、血を飲む者」といった噂が拡がったという記録もあります。もちろんこれは聖餐式の事を非難している噂です。クリスチャンにはきびしい時代でした。

エペソへのメッセージ(復習)
そんな厳しい中を通っているクリスチャン達に、天から、人の子が励ましのメッセージを送ったのが黙示録のこの箇所です。先回はエペソの教会へのメッセージ、「初めの愛に戻りなさい。」というものでした。愛の教会として有名だったエペソの教会がいつしか、教理に長(た)けるようになり、偽使徒を見抜く程になっていたのですが、愛はないがしろにされるようになってしまっていました。しかし、愛はクリスチャンの生き方のすべての根底にあるべきです。「神は愛です。」という輝く一文が新約にあり、また、旧約聖書を一言でまとめるなら「神様を愛し、人を愛し、自分を愛しなさい!」とイエスキリストはおっしゃいました。ペテロには、わたしを愛しますか、と尋ねました。この愛なしに、知識や、奉仕をつみあげても、本質のないキリスト教となってしまいます。エペソはこの大切なものを忘れかけていたのでした。

スミルナについて
二つ目はスミルナの教会へのメッセージです。スミルナはエーゲ海に面した海港都市で、この町も商業が栄えた町だそうです。町の名前は「没薬」という意味なので、医薬品や香料、防腐剤などが豊富にとれたと思われます。 イエス様の体に塗られた没薬もここの産物だったかもしれませんね。この教会がどのようにして始まったかは聖書には記録がありません。パウロたちの影響を受けた人達がスミルナで教会開拓をしたのか、パウロ達がエペソにいた2年以上の間にスミルナでの働きをしたのか、誰かがこの町にでかけていったのです。
スミルナの教会
初代教会への迫害はスミルナまでも届いていました。この時代に、この場所でクリスチャンとして生きるということは、いつ教会が閉ざされるか、いつ財産が没収されるか、いつ家をおいだされるか、家族から引き離されるか、いつ命を奪われるか、わからないという事を意味しました。おそらく、何人もがそのような目にあっていたことでしょう。すべてがイエスキリストを信じたが故です。 人の子はそんなスミルナのクリスチャンに、「私はあなたの苦しみと貧しさを知っている。」と語りかけます。人生の苦しみの中を通るとき、自分の心を知っていてくれる人が一人いるだけで、どれだけ慰めになるでしょう。そして、誰がどのようにして苦しめて来るかも分かっている、といってくださるのです。自分を攻撃する人はしばしば上手に隠れて攻撃しますね。まるで何も悪い事をしていないように、見せかけて攻撃してきます。悪人にはならないように賢く攻撃します。この時も、ユダヤ教の教えという大義名分を打ち出して、クリスチャン達を攻撃したのでしょう。何も自分は悪くない、と見せかけて。 しかし、イエス様は見抜いてくれていました。こんなことをする者たちは、自称だけのユダヤ人で、かえってサタンの会衆だ、と。

ユダヤ人の定義
ユダヤ人と自称するというのは、本当のユダヤ人の意味は、アブラハムの召し、神様との契約の中に生きるものがユダヤ人。「神様の祝福を受けて、その祝福が子孫におよんで、彼らを通して全世界に祝福が及ぶ」という民族の召しをうけたのがユダヤ人なのです! しかし、いつしか、アブラハムへの召しをわすれ、自分達は神に選ばれた特権人種だという間違った選民思想に陥っていたのです。神様がアブラハムを、そしてユダヤ民族を選んだのは、神様の救いと祝福が全世界に及ぶための管としてでした。その崇高な使命をわすれて、狭い心の民族主義に陥ったユダヤ人を、人の子は、「ユダヤ人と自称しているが、じつはサタンの会衆である人たち」と呼んでいるのです。
サタンの手先となったユダヤ人は、神の民への迫害をローマに訴える形ですすめたのです。

励ましの言葉
人の子はスミルナの教会に励ましの言葉を贈ります。「苦しみを恐れてはいけない。」
なぜ恐れないでいなさい、といっているのか?
1.十日間だけ。 (一定期間) コントラストは、「永遠の神様の命」。永遠にくらべたら、10日はほんの一瞬の瞬き程度。この地上の苦しみは、永遠の神様の恵みとは比較にならない。
2.それに耐えたら、「命の冠」が与えられるという約束。勝利を得る者は決して第二の死によって損なわれることはない。という神様の約束でした。.

投獄されたクリスチャン達、迫害による死の迫る恐れの中のクリスチャン達にこの言葉はどんなに大きな慰めだったことでしょう。
 
スミルナの教父ポリカープ
この後スミルナでも大迫害がおこり、つぎつぎとクリスチャンが処刑されていきました。そして、この地での12番目の処刑は、著名なポリカープという司教でした。彼はスミルナの教会にいて、多くのクリスチャン達を導いていた人物です。彼自身はイエスキリストの弟子のヨハネ、黙示録の著者ヨハネの弟子だったという記録があります。ポリカープは ローマの皇帝にお香を焚くという礼拝を拒絶したために、冒涜罪で捕らえられました。実際に捕まったときは農夫の家に居たときでした。ローマの兵士が捕えに来たとき、農夫はかくまおうとしたのに、ポリカープは自分から出てきて、兵士に自主しました。しかし、ポリカープは彼らに食事をもてなして、兵士と共に出て行きます。彼の人徳で多くの人が彼を処刑したくはない、と考えるようになり、キリストを否定して生き延びるように勧めましたが、ポリカープは耳をかしません。そして、AD155年の223日、火刑が処せられました。まきが集められて、広場に積み上げられ、木に縛られたポリカープの下に火がつけられました。「もし今、一言でもキリストを否定したら、この火は消してあげよう。」しかしポリカープは、「わたしは86年間、主イエスキリストの恵みを味わってきました。どうして今私がこの方を否定できるでしょう。」と拒絶したのです。それで、まきがもっと高くつまれて、火が燃されたのでした。しかし、不思議がおきて、何時間たっても火はポリカープの体に燃えつかなかったというのです。それでとうとう、槍をもって処刑がなされました。彼は死にいたるまで忠実でした。今は永遠の命の冠をいただいて、天ですばらしい礼拝をしていることでしょう。彼は本当に勝利を得たのです。

クリスチャンであっても、私達は苦しみを経験します。私達の信仰を試されるような苦しい試練がきます。それは、神様が愛していないからではありません。私達の信仰の戦いを神様がゆるされるのは、私達が「勝利にいたるため」なのです。勝利は戦いの後に来るものです。戦いがなかったら勝利はありません。すべての大きな苦しみは、その背後にはサタンがおりますが、サタンは神様に対抗できる力はありません。私達は、神様の力によってこの試練に勝利をすることができるのです! そして、私達最後の戦いである、死ですら、神様を信じる信仰によって勝利するとき、命の冠をうけとることができるのです。イエスキリストの十字架は人類最大の戦いであり、最大の勝利です!

最後に今この時代に、迫害の中で信仰の戦いをしている北朝鮮のクリスチャン達の様子をみて、彼らのために祈ること、そして、彼らの信仰からのチャレンジをうけたいとおもいます。

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