2014年3月8日土曜日

「人間の弱さ」

ネヘミヤ記 13:1-30

お正月はいかがすごされましたか? 2月にもう一度新たな決意をもって一年を進められるのが、韓国のカレンダーの良いところです! 
お祈りをありがとうございました。今回の日本での奉仕は、神様の奇蹟の連続でした。神学校で教えた間はもちろん、日本ローザンヌ委員会のマイケル・オー総長の就任式に参加しました。(韓国系アメリカ人で名古屋で神学校をはじめた人)ローザンヌはビリーグラハムがはじめた集会、その後継者。 高尾教会では、婦人会の主催の伝道会のようなものを企画してくださり、ノンクリスチャンの方もお招きしてみことばを学ぶ時を持ちました。日曜日は、草加リバーサイドチャペルという東京のメガ教会(?)で、みことばの御奉仕をさせていただきました。他にも、毎日、いろんな会に出席したり、出版社を訪問したり、病気の方をお見舞いしたり、 一週間でこれだけできるのか、というほど無駄のない一時帰国でした。何人かの方から、「韓国の教会はどうですか?」「ハレルヤ教会はいかがですか?」と聞いてくださいましたので、こちらの様子をお証しすると、「いつか行って見たいです」と いってくださいました。日本の教会にビジョンと元気をもたらす教会にハレルヤがもちいられたら、と願いました。ことしも、日本宣教の道具として、神様に力強く用いられるハレルヤ教会日本語礼拝部を共に築き上げていきましょう!  

暗唱聖句「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」
Iペテロ29

<みことばから>
ネヘミア最後の章となりました。城壁の修復はわずか52日で完成させ、その後は民の再建にとりかかりました。神殿礼拝の回復や、律法の再学習など、住民の霊性をととのえて、エルサレムはすっかり再建が完成したので、ネヘミアやエズラはその喜びを大賛美の行進という形で祝いましたね。完成した城壁の上を、エズラに導かれた一群と、ネヘミアに導かれた一群が賛美をしながら行進して、神殿の前で合流します。二つの大きな聖歌隊の合同賛美は、どんなにか感動的だったことでしょう! わたしたちも、ハレルヤのカノン形式のコーラスを献げて、その感動をすこしでも味わうことができました。

今日の箇所13章は、これらの出来事の10数年後の事です。あれだけの修復と改革を完成させたエズラとネヘミアでしたが、この最後の13章をみると、びっくりするような残念な状態がかかれています。 ユダヤ人が10年以内に陥った4つの問題です。

1.異邦人を神殿に入れる
申命記233節には、アモン人は主の集会に出ることは許されていないのですが、アモン人であるトビアがなんと、神殿の奉納物保管所をあてがわれていたのです。それは、大祭司エルヤシブとトビアが親しい関係にあったらからだ、とあります。たしかにトビアはユダヤ人の上層部との婚姻関係をむすんでいたらしいことが記録されていました。(6:18) 大祭司エルヤシブが婚姻関係にあったかは、明記されていませんが、とにかくこの二人は親しい間柄であったため、大祭司の許可を得て、異邦人であるトビアが、なんと、異邦人は入ることすらゆるされなかった 神殿の一部の、ある部屋をあてがわれていたのです。ネヘミアはこれにとても機嫌を悪くして、部屋からトビアの器具を全部そとに放りだして、部屋をきよめさせました。このきよめの儀式は、大祭司が神殿を汚していた、という大失敗を正式に告発したことになります。それから、神殿の 道具などを入れ直しました。大祭司という責任ある立場のエルヤシブが、いとも簡単に異邦人トビアを神殿にまで入れていたことは、イスラエルの霊性の低下の表れであったでしょう。リーダーがこのように、霊性がぐらついているならば、その下に続く者達の霊性もくずれます。

2.レビ人の逃亡とその処遇
10節からを読むと、レビ人と歌うたい達が、エルサレムから自分の故郷に逃げ帰ったことが書かれています。ネヘミアが不在だった間に、10章でむすばれた盟約は形だけのものとなり、人々は神殿への献げ物がいい加減にするようになりました。
盟約の内容
「礼拝のためにシェケルの3分の一をささげます。」
「常供のささげもの、全焼の献げもの、例祭のささげもの、聖なる献げもの、贖いのための献げ物、などを神様にささげる」ことも誓いました。
「祭司たちもたきぎの献げ物を献げる」約束をしたのです。
動物の献げ物だけでなく、「土地の初生り、木の初生りの果実、麦粉、葡萄酒、油なども神殿に仕える祭司とレビ人のために、献げることを約束したのです。
土地の十分の一は祭司とレビ人の分として献げて、彼らが神殿で仕えることに専念できるように、みんなで支えるという誓いをしました。

ところが、ネヘミアが不在の間に、エルサレムに集められたレビ人たちは、みんな自分の農地のある町にかえってしまったというのです。民がレビ人の支援をストップしたので、レビ人たちは生活の糧をえられなくて、自分の農地にかえらざるをえなかったのでしょう。
 もちろん、大祭司が異邦人を神殿にいれるようなことをしているので、その民の神殿礼拝への思いが崩れてしまうのも当然ですし、こんな状態でみんなが神殿礼拝の大切さを理解せず、いい加減に考えていたので、大祭司であるエルヤシブも、こんなことをしでかしたのかもしれません。どちらにせよ、イスラエルの霊性の低さがいい加減な献げ物に表れ、それゆえ、奉仕者が居なくなるという状況の中にでていたのです。

今日本の教会は「無牧」に悩んでいます。専任の牧師の居ない教会は8年前に960でしたから、今ではもう2000近くなっているかもしれません。(兼任牧師。兼任の牧師もいない教会は200だった)先週おめにかかった神学校関係のかたによると、どの神学校も新入生が本当にすくなくて大変だ、となげいておられました。献身者がいないのです。教会が小さくて、牧師の生活をささえられない、ということも理由の一つでしょう。きびしい生活をよぎなくされた牧師家庭をたくさんみました。そんなイメージがあったので、牧師になるときびしい生活をよぎなくされる、という考えも献身者が少なくなっている原因の一つではないか、と思います。神様のはたらきに専心できるという自信があったら、すばらしい教会をたてあげてくれそうな人はいるのですが、献身ができないのです。そのレビ人の生活をささえることができていないからです。

レビ人/祭司は畑や商売をせずに、神殿に仕える者です。それを理解して民がささえないと、礼拝はなりゆかなかったのです。

3.安息日の厳守
安息日を守るということは、その人がユダヤ人であるという証明でした。これこそ、異邦人と区別される一点だったのです。ところが、霊性が落ちてしまったユダヤ人には、これもまた、いい加減なものとなりました。安息日でも異邦人が神殿の周りで物売りをはじめると、ユダヤ人は都合がいいので物を買うようになったのです。それをみて、ユダヤ人の農夫も産物を安息日に売るようになりました。安息日は神殿に集まってくる人も多かったのでしょうか、格好の商売日だとおもったのでしょう。「安息日激安セール」

かつて、イスラエルが分裂し、異邦人に捕囚されたのは、礼拝がくずれたためだったと先祖の過ちを強調して、同じ失敗はくりかえしてはならない、と訴えます。単に訓戒だけでは止められず、城壁の門をはやめに閉じて、金曜日の夜に始まる安息日に、商売するものたちが物を持ち込めないようにと策をねりました。すると今度は城壁の外で商売をはじめる者たちがでてきました。それで、ネヘミアは「実力行使にでるぞ!」、と宣言し、レビ人に命じて門の守りにつかせました。軍や公安をもちいての、デモの排除のように、レビ人をもちいて、排除する。このようなことは霊的な問題だとネヘミアはわかっていて、これは霊的な問題だとわかっていたので、レビ人がこの職務につくときには、身をきよめるように命じています。さまざまな問題の裏にある霊的な原因を見抜くことが大事で、それには霊的に対処するのが重要です。。

4.雑婚
10数年の間にユダヤ人の中にアッシュ土で人、アモンじん、モアブ人をめとっている者がいたことも判明しました。ユダヤの言葉(ヘブル語)も通じない世代がでてきていた。言葉が通じないということは、文化の継承も、信仰の継承もむずかしいということです。ネヘミアはこの問題の深刻さを知っていたからでしょうか、その者達への罰は厳しいものでした。 
詰問し、のろい、打ち、毛をぬいて、神掛けて誓わせた。 
徹底した罰をあたえています。 エズラは、おなじような状況に直面したとき、自分の髪をひき、髭をぬき、服をさいて、すわりこんでしまいました。ネヘミアはきびしい罰則をあたえて、民がこのようなことをしないように、つとめています。 エズラの方法とはことなるのですが、ネヘミアの熱意と真剣さがみられます。

この4つのユダヤの民の失敗
異邦人をいれたこと
捧げ物をないがしろにしたこと
安息日を軽視したこと
雑婚をみとめたこと

人間が本当に弱いものだということおしえてくれます。あれほどの情熱をもって、神様の神殿をたて、城壁をめぐらせた民が、ネヘミアの留守にいとも簡単に、礼拝がくずれ、律法がないがしろにされ、献げ物が真剣ではないものとなり、雑婚までおこなわれるようになりました。

律法をないがしろにしたとき、神の民が、その崇高な召しからずれおちていきます。私達のだれかが、「それはみことばから、ずれている!」「それは神の民のなすべきことではない!」と、生活をもって教える地の塩、世の光のような存在が必要です。

異邦人の習わしが私たちの心や生活にまぎれこんでいないか。(異邦人のように生活していないか)
捧げ物、礼拝をないがしろにしてレビ人と祭司がやる気をなくなしてしまうことがないか。 
安息日の本意を理解しているか。教会に商売の機会を期待して来ていないか。 
信仰の継承がどれだけ重要かをかんがえて子供を見ているか。

神様をおそれ、神様のみことばを真剣にうけとめて、この4つの過ちを私達も注意して、進みたいと思います。

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